今日は、二松学舎の創立記念日です。

二松学舎は長い歴史を持つ学校で、今年で135周年を迎えました。

明治10年10月10日に漢学塾として開校されたのが始まりです。

「明治10(1877)年、日本の国情は安定せず、若者は西洋文明の摂取にばかり熱心になっている状況でした。

漢学者・三島中洲(ちゅうしゅう)は、西洋文明の進んだ部分を自分たちのものにするためには、東洋の文化を学び、日本人の本来の姿を

知ることこそが重要だと主張し、10月10日、自宅に漢学塾「二松学舎」を開きました。」『明治10年からの大学ノート』より

大学HP「二松学舎列伝」より抜粋~大学ホームページへはこちらから

二松学舎列伝 創立者 (学祖) 三島 中洲

創立者三島中洲写真画像

創立者(学祖)
三島 中洲

三島中洲(ちゅうしゅう)名は毅(き)、字は遠叔。天保元年、備中窪屋郡中島村(後の中洲町、現在の岡山県倉敷市中島)に生まれた。

11歳から学問を志し、14歳で儒学者山田方谷の門に入り陽明学を学んだ。さらに斎藤拙堂のもとで見識を深め昌平黌において佐藤一斎に学んだ。

30歳の時、備中松山藩に仕え、幕府老中でもあった藩主板倉勝靜とともに激動の幕末を経験した。

明治維新後、新政府の命により上京、新治裁判所長、大審院判事(現在の最高裁判所判事)を務めた。

明治10年、官を辞し「漢学塾二松学舎」を創設。多くの子弟を育成し、漢学・東洋学の発展に尽力した。のちに東京高等師範学校教授・東京帝国大学文科教授・東宮御用掛・宮中顧問官を歴任した。

 

二松学舎列伝 第5代舎長 吉田 茂

第5代舎長 吉田 茂画像

第5代舎長
吉田 茂
東京生まれ。東京帝国大学卒業後、外務省に勤務し各国の大使を歴任。戦後は吉田内閣を組織し、7年余の政権のなかで、新憲法の発布やサンフランシスコ平和条約締結など戦後復興の礎を築いた。

吉田は明治初期における自由民権運動の先覚者、竹内綱の五男として生まれ、 1887(明治20)年、9歳で貿易商吉田健三の養子となる。幼少の頃は漢学塾にも学び、また養母士子(ことこ)は、有名な漢学者佐藤一斉の孫であったこ とから、人格形成には、漢学が大きな影響を与えたと考えられる。

岳父牧野伸顕が二松義会の顧問を務めたこともあり、 1963(昭和38)年、二松学舎舎長に就任した。

二松学舎に学んだ人々 第1回 夏目漱石

夏目漱石画像

夏目漱石
(1867~1916)

夏目漱石は、近現代文学史にそびえる明治時代の文豪の一人であり、英文学者でもある。文学を追究し続けた漱石にとって、少年時代、漢学塾二松学舎で学んだ ことが、彼の小説における儒教的な倫理観や東洋的美意識を磨いたといわれる。小説のほかにも漢詩や俳句を多く残した漱石の二松学舎時代を見てみよう。

明治 14(1881)年4月、夏目漱石(本名・夏目金之助)は、当時漢学塾だった二松学舎の門を叩いた。その年の「二松学舎入学者名簿」には「塩原金之助」の名が記載されている。

漱石は、明治 14年7月に第3級第1課を、同年11月に第2級第3課を卒業した。授業内容は次のようなものであった。

第3級第1課
唐詩選、皇朝史略、古文真宝、復文。

第2級第3課
孟子、史記、文章軌範、三体詩、論語。

多くは3級程度で、2級以上の学力を有する者はまれだったという。
多感な少年時代に二松学舎で培った漢詩文の知識と教養は、文豪のその後の人生に大きな影響を与えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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