愛とは待つことである

髙野 晃一


私が初めて立教英国学院を訪れたのは、この学院が創立されて間もない頃のことです。

ホーシャム町からバスに乗ってラジック村のフォックスインの所で降り、約四0分歩いてこの学院を訪れました。

当時は本館の建物だけでした。夏休みの時だったので生徒の姿はなく校長先生と奥さんだけが住んでいて、一泊し色々学院の話を聞かせていただきました。

十数名の生徒は主に海外で働く家庭から来た生徒たちでした。

日本の昔の寺子屋のように先生と生徒が一緒の生活です。

校長先生の奥さんがお手伝いさんと一緒に料理や掃除洗濯もしているそうです。

学院の創立には日本聖公会と英国国教会が物心共に深く関わり、本館校舎の購入には強い支援をしたようです。

当時の日本聖公会の首座主教であり立教学院院長でこの学院創立に関わった、大久保直彦主教さんに以前から学院の話は聞いていました。

創立の責任者であり初代校長の縣先生のこと、海外の多くの企業が強く支援していること、立教学院の卒業者たちの協力があることなど。

こうした沢山の人々の協力と支援があって創立に漕ぎつけたことなどです。

 後に私もこの大久保主教さんの指示で、英国の教会で二年間働くために再び来英し、小学一年生を筆頭に四人の子どもを英語の全く分からぬまま現地校に入れた経験から、海外に住む親にとって子どもの教育が深く心に掛かることであるかを分かっていたので、この学院には絶えず関心を持っていました。クロイドンでのビザの更新のため、再び学院を訪れた時も夏休みでしたが、今度は大きくなった学院の新館に家族と共に泊めていただきました。

 この大久保主教さんが立教英国学院特祷を制定し創立礼拝も司式されましたが、後年良く説教された主題が「神は愛である、愛とは待つことである。」と繰り返し語られたことです。

旧約聖書全体を通して流れていることは、その二千年の歴史を通して神さまがいかに人間を愛し恵まれ続けたかという事実です。

神さまは預言者たちを通して、人間をいかに愛し続けているかを伝え教えましたが、この神さまに対して人間は絶えず反逆し裏切り続け、その反逆と裏切りは止まることを知りませんでした。そして最後には人間のために世界に降り、自らの命までかけて人を愛したイエスさまを、人間は十字架に掛けて殺してしまったのです。

しかし、使徒たちやパウロなどは、それでも神さまは人間を愛し続けておられると手紙などに記し、これらの証言を集めたのが新約聖書です。

この旧約と教会の時代を合わせた四千年の歴史を通して言えることは、神さまは人間の反逆や裏切りに対しても、決して諦めることなく忍耐をもって人間を愛しそして待ち続けているという事実です。

これこそ大久保主教さんが繰り返し説教された、「愛とは待つことである」という意味です。

この立教学院がキリスト教の教えに基づいているとは、その教育の底に「愛とは待つことである」という聖書の教えが深く流れていることであると思えます。

立教学院特祷では「願くは教うる者と学ぶ者とを祝して、共に知識を深め、主の真理と愛とを悟らせ、常に謙遜なる心にて神を仰ぎ、たがいにいたわり、たがいにあい励ますことを得させたまえ」と祈ります。

この底には神さまとイエスさまの止まることのない人間への愛が流れます。

家族の間では当然のように、また人の集う共同体である社会や学校でも、愛があれば互いを尊重し合い忍耐と希望を持って他を待ち続けられます。

すぐ切れて待てないのはそこに愛がないからです。

立教英国学院の教育の底には、この「愛とは待つことである」という姿勢が深く流れていると思います。

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