3月8日(土)に卒業終業礼拝が行われました。この礼拝はその名の通り、終業式と卒業式を含みます。今年度は小学6年生が3人、中学3年生が29人、そして高等部3年生32人が卒業を迎えました。卒業証書をもらう一人ひとりの姿には、入学して以来の「成長」が改めて感じられました。日本国大使館の川村総領事と校友の須藤理事からご祝辞をいただき、ホーシャム市議会議長からは日英交流に寄与した生徒の表彰がありました。

この日は卒業式ということで特別に地元の教会の牧師さんたちも参加、ラジウィック村のMARTIN KING牧師 にまずは卒業の祝祷をあげていただきました。そして、卒業生代表のスピーチが各学年で行われ、それぞれの立教生活を送ってきた日々を振り返り、懐かしい思い出が語られました。最後に、今年度をもって卒業・転学する生徒と退職する先生のために、クランレイ村のROY WOODHAMS牧師から送別の祈祷をしていただきました。たくさんの思い出を共有した友達、先生。特に立教は、一日を生徒も教員も共に過ごすだけに、その思い出は濃いものです。離れていく人、そしてそれを見送る人。それぞれの思い出と別れのさみしさを胸に、卒業終業礼拝は幕を閉じました。

気持が、思っていることが、一つ一つ全て伝えることができないことは、こんなにももどかしいなんて。今回の交換留学で切に感じたことである。

私はフィービーという15歳の女の子とバディを組んだ。私より一つ年下とはいえ、180cm近い身長と、私たちから見たらとても大人びた顔立ちで、むしろ年上に思えた。自己紹介など一通りお互いについて話した。彼女はベジタリアンなのだそうだ。厳密にはペスカトリアンと言い、魚も卵も食べるそうだ。そして私の頭には「一週間の野菜生活か…」その思いが真っ先に駆け抜けた。どうやら豆もすごく食べるらしい。

彼女たちをドミトリーに案内し、彼女のアンパッキングが終わるのを待った。彼女は二人の兄がいるせいか気がしっかりしている印象で両親との別れも意外とあっさり。

今から全く知らない異文化・人の中での生活が待ち受けているのに、ものともせず、むしろとても楽しみにしているようだった。私たちにとってはこれほど安心なことはないが、私が果たして同じような振る舞いや思いで向こうに行けるか…。ちょっとあやしい。今から迎える側での交換留学が始まろうとしているのに、もう向こうでの心配を…。彼女たちの方が不安がるはずなのにむしろ逆の立場である。これがお国柄というものなのか。

学校案内を終え、夕食。私たちは立教・ミレー特別テーブルで一週間昼・夕食を共にした。どの食事も隣のテーブルマスターの先生ににらみを効かされそうになるほど盛り上がった。やはり人は食事を通してコミュニケーションをするんだな、と改めて思った。

ゆかたの試着からのり巻き作り、茶道、フラワーアレンジメントなどのプログラムではもちろん彼女たちはとても喜んでくれたし、私たちも楽しむことができた。だんだんと両者心の余裕が出てきて、会話もどんどん「友達のおしゃべり」になった。学校のこと、友達のこと、家族のこと…いろいろなことを話した。

食事の席やスピーキングの時間でどんどん会話は盛り上がるようになり、どんどん話したいことがあふれてくる。と同時に、早くこの同じ気持を共有したいという思いが強くなってくる。そして伝えようとする。でも伝わらない。私のまだつたない英語力と全世界共通の身振り手振りで奮闘する。相手の子たちも理解しようと努力してくれ、伝わってはいるのだ。でも、伝わってはいない。会話が日に日にどんどん弾み、もっと打ち解けたい。その思いに比例して私が伝えたいニュアンスが伝わらないそのもどかしさは増えていく。通り一辺の、簡単な英語になってしまう。言葉が足りない。言葉が欲しい。この思いを伝えたい。こんなにも言葉がいとおしくて、遠い存在に思ったことなどなかった。自分で思っていることが言葉で表現できず、理解してもらえないことが悔しかった。語彙力が足りない。もっと、もっと表現するための語彙力が。

葛藤を抱きつつ、一週間が過ぎた。最終日。彼女は、とても寂しい。帰りたくない。何度もそう言ってくれた。しばしの別れを噛み締め、どこか重いその空気に酔いそうだった。初めは不安だった。何もかも。でも、こうして今、わかりあえている。確信をもってそう思えた。

彼女の両親が迎えに来た。彼女は気丈に振るまっていたけれど、目が赤かった。
「ありがとう。」
その五文字と温かいハグを残して足早に車に乗ってしまった。彼女の母親が
「涙を見られたくないのよ。またね。」
と笑って手を振ってくれた。
この心にある、気持はなんだろう。再開した時に、この気持が伝わるように、少ししか時間はないけれど、成長した私になってまた目まぐるしい一週間を迎えたい。

(高等部1年生 女子)

 今回私は、初めて大英博物館に行きました。

去年の入学式の前日、父とロンドンを観光をすることになって、観光名所で停車していく二階建バスでまわっていきました。そこで父が、
「パパ大英博物館行きたいんだよね。」
と言ってきて、大英博物館で停車した時に降りました。入口で父と写真を撮ったけれど、私はその時に行くのがすごく嫌になってしまって、父に入るのを断固拒否してしまいホテルに帰ってきてしまいました。

後で父から、
「やっぱり大英博物館行きたかったなぁ。だって入場料タダだし行った方がよかったよ。」
と言われても嫌だと言いつづけてしまいました。

今回アウティングで行く事を聞いて、そのときの父の事が思い浮かびました。すこし私は後悔しました。私はアウティングでいつでも行けるけど、父はもう行けない可能性があるから、あの時行けばよかったと思いました。

実際に行ってみるとモアイ像やミイラがあって父の好きそうなものばかりあって胸が痛くなりました。帰りたいと思いました。時間はあっという間にすぎていってしまい、最後に班の皆でおみやげ屋さんにいきました。そこで父におみやげを買いました。その時私は、決心しました。大人になったらお金をためて父とロンドンに来て大英博物館につれて行きたいなと思いました。

また行く日を楽しみにしています。

(中学部2年生 女子)

今回のアウティングは待ちに待った大英博物館でした。大英博物館は世界でも有名な博物館だけあって、大勢の人がいました。

僕は数ある中でも日本とフランス、イギリス、エジプト、メソポタミア文明を見ました。日本のコーナーには、土偶や国宝がたくさんあったけれど、日本のコーナーの中で一番目についたのが、侍が着る鎧や日本刀でした。数ある中でも、一番煌煌しく、男のロマンを感じました。

エジプトのコーナーではミイラなどがあり、それもまた、煌煌しかったです。
そこでは、世界最古のゲームを見ることができました。このゲームは、「ウルゲーム」といって、紀元前2600年頃の見張り達が暇な時にやっていたゲームです。見張り達が残したただの落書きがこんなにきれいに残っていたのが驚きでした。

またそこには、エジプトの王、エピファネス5世が残した、ロゼッタストーンがありました。ロゼッタストーンには戦の勝利や治水工事、税の軽減など、エピファネス5世がエジプトのために行った数々の業績や、聖職者が受けた恩恵などが詳細に述べられていました。

久しぶりに世界の数々の遺産を見て、これから生まれてくる子供達に教えてあげられたらなと思いました。

(中学部2年生 男子)

まず、バスから降りたら昼食を食べにいった。結局マクドナルドという不健康なつまらない店に入ってしまったが、もう少し散策して良い物を食べたかった。

大英博物館を見学することが今回のテーマであった。博物館の周りのマクドナルドで私達は昼食をとった。

博物館に入ってみると改めてたくさんの物があるのだなと思った。実は大英博物館に行ったのは二回目なのだ。この博物館を見るとイギリスが世界にどれだけ昔から影響を与えていたのか一目で分かる。百聞は一見にしかずだなと思った。

日本よりも国自体の面積も人口も小さく、少ないのにも関わらずなぜこんなに世界に今も昔も影響を与えられたのかとても知りたくなった。イギリス人のこのような所はすごいなと思った。日本の繊細さは世界一だと確信しているが。

日本の展示品のコーナーに行くと国宝だの素晴らしいものがたくさんあった。しかし、外国人はあまり来ておらず、日本の特徴、文化を分かってもらうためにもアピールして外国人をもう少し入れるべきだろうと思った。

一番残念だったことはせっかく物を見てもその価値、どのようにして作られたのかがまったくわからなかったことだ。自分の英語力、歴史の知識はまだまだだと落胆した。でも、これからこつこつと頑張り、また挑戦しに行きたい。

(中学部2年生 男子)

イギリスでの初めてのミュージカル観劇は私に大きな衝撃を与えた。

私は今回のアウティングで初めてロンドンを訪れた。おいしい物を食べることや観光という目的もあったがなんといっても一番の目的はレ・ミゼラブルの観劇だった。私はあまりミュージカルには興味がなく、レ・ミゼラブルに関しても名前を知っているという程度だった。

アウティングの二日前、ブレイクの初日に下調べとして映画を見た。劇中のセリフはほとんど歌。普通にしゃべるセリフはほとんどなかった。そのため英語は聞きとりづらかったが、ミュージカルの壮大さに私は心を奪われた。歌が上手いのはもちろんだが、歌の中にその登場人物の感情がぎっしり詰められていて、ラストシーンでは思わず泣いてしまったほどだ。これで素晴らしさに気づくことができ、本番が楽しみになった。

本番が始まって最初に驚いたことは歌の迫力だ。映画もすごかったが、ミュージカルは半端ではない。鳥肌がたつほど美しい歌がひびいてきた。もちろん英語は聞きとりづらかったが下調べをしていたおかげで、ほとんどの内容を理解することができた。この劇は早いペースで物語がどんどん展開していくのだが、加工が一切できない舞台の上で流れるように話が展開していったのには驚きをかくせなかった。また、オーケストラの生演奏も迫力満点で素晴らしく、最後は観客皆がスタンディングオべ–ションで出演者、オーケストラ、またこの作品に関わっている人たちに感謝の気持ちを送った。

私は今までいくつかのミュージカルを見てきたが、ここまで魅了されたのは初めてだった。今もまだ劇中に出てきた曲が私の中で鳴り響いている。機会があるならばまたこれをみて、今度は歌だけではなく、出演者の歌い方、また、舞台のセットなど細かいところに注目してみたいと思った。

(高等部2年生 女子)

私は今回のアウティングで、ロンドンにある自然史博物館を訪れた。まるで教会のように豪奢で、さすが英国の国立博物館だなと感じさせる建物であった。

中へ足を踏み入れると、大きなディプロドクスが私たちを出迎えた。ディプロドクスは、白亜紀に生息した草食恐竜だ。約一億年も昔に生きていた恐竜(化石)と私が並んで立っている事実にただただ圧倒させられた。

館内は四つのエリアに分かれており、私は恐竜、海の生物、人間について展示されているブルーゾーンを訪れた。恐竜の化石が上からつるされていて、顔だけのものもあれば胴体しかないものもあった、あんなに大きい口をしているのだから、私なんで食べても全然お腹にたまらないだろうなと子供っぽいことを考えた。

次に、人間についてのコーナーを訪れた。そこで私は記憶力を確かめるゲームをやってみた。窃盗事件のショートドラマを見て、後にどれだけ犯人の情報を覚えているかというものだった。それぐらい誰にでも覚えられると思ってやってみたら、他人の髪の色しか答と合っていなかった。他の選択肢を見てしまうと、人間は混乱してしまうらしい。人間の脳はつくづくおもしろいなと思った。

最後に海の生物コーナーを訪れると、貝牛類の骸骨が展示されていて、プレートを見ると「Honshu Japan」と書いてあった。それを見つけた時、なぜか少し嬉しくなって、カメラを構えた自分がいた。

(高等部2年生 女子)

高一最後のアウティングに行ってきました。目的地はロンドン。ナショナルギャラリーの見学と、ミュージカル「マンマ・ミーア」の鑑賞をしました。

ナショナルギャラリーにはゴッホの「ひまわり」という絵が展示されています。今回、見学に行った時にはアムステルダムのゴッホ美術館から八つある「ひまわり」のうちのもう一枚が来ていて、展示室の中には計二枚のゴッホの「ひまわり」が飾ってありました。

前に僕はゴッホの「ひまわり」を見たことがあったのですが、前回展示してあった場所と違って、今回二枚の絵が展示されていた場所は証明が少し暗かったのであまりはっきりと色の違いを見比べることができませんでした。けれども二枚の絵はお互いすぐ隣に飾ってあったので違いをとても比較しやすかったです。

ナショナルギャラリーの見学を終えて、七時の集合までフリーになってからは少しばかりお出かけをしました。ストリートのお店に入ってお菓子や服を見て、ドーナツを食べて、五時四十五分からは日本食レストランの「太郎」で二組の男子全員でご飯を食べました。

その後の夜のミュージカルは、久々に僕に感動を与えてくれました。もともとオペラやミュージカルは親の影響で見ていましたが、それでもやはりとても刺激的なものでした。ABBAの音楽という、自分の知っているものが多くあったこともその理由かもしれません。

しかし本当の理由はひとえに、「マンマ・ミーア」が超ロングランの作品であることに尽きると思います。長い年月を経て今なお人々を魅了する作品だからこそ、また、人々に刺激と幸せと感動を与えられる作品だからこそ、オペラやミュージカル慣れした心にも響くものがあったのだと思います。
改めて芸術作品というものの概念とその存在意義を考えさせられました。

これまで、僕はそういった類のものは娯楽のためにあると思っていました。それで人の心を満たすことができれば、ただの娯楽でいいのだと思っていました。しかし、このロンドンでの芸術作品の鑑賞を通して、その考え方が少し変わった気がします。

心を満足させるのと、感動を与えるのは別物だと思います。心を満たすのは満たすだけです。感動させるのは心を大きくすることです。人を成長させるということです。なぜなら感動があるからこそ、人は自分も同じ感動を求めて動き出すからです。それが人の成長につながるのだと思います。人の心に満足という感情だけでなく、感動というものを与える芸術は、科学技術の進歩と呼ばれるものとともに、人類をここまで成長させてきたのではないでしょうか。

芸術は一見非力のように見えます。しかし、その存在なしではこの世界は成り立たないのだということを、このロンドンでの鑑賞を通して感じました。

(高等部1年生 男子)

絵の良さなんてわからなかった。綺麗だとか、細かいとか思っておしまいで、1枚の所要時間30秒いくかいかないか、という位に興味はない。ヨーロッパに住んでいるからそこそこ良い美術館にもたくさん行ったのだが、私の興味が向くことは無かった。

今回もどうせ良さがわからず終わるのだろうなと思っていた私は、しおり片手にある絵を探していた。その絵は担任の森先生が背景を丁寧に教えてくれた巨大な絵。『レディー・ジェイン・グレイの処刑』
見た瞬間に感じたのは、絵から漂う暗さ、悲しさ。全体的に暗いこの絵の中で、ジェイン・グレイは輝いていた。これから処刑されるのに、だ。皮肉な事に、私の目にはとても美しく、輝いている彼女がいた。

次に先生の言葉を思い出しながら鑑賞。王位継承問題に巻き込まれ、「反逆者」となった彼女は人当たりが良く、温和な人間だったらしい。だから後ろの侍女は泣いているのか。だから聖職者も首切り人も彼女に慈しみの目を向けるのか。ならばなぜ、彼女を救ってあげられないのか。彼女はなぜ泣いていないのか。たくさんの失望も疑問も、どこにも行かずに私の心に留まり続けた。失望も疑問も、私の中で希望に変えたくなかった。絵を見て、衝撃を受けるのも、自問自答するのも、「せめて私の内だけでも幸せに」なんて思うことも初めてだった。私はこの絵を見ることができて、絵に興味を持つことができて、本当に嬉しかった。

大げさに言うと、この絵は私の考え方を変えたのだ。しかも正の方向に。きっと森先生が説明しなかったら、私がまじめに話を聞かなかったら、しおりをまじめに読まなかったら、私はこの絵に、この絵に出会えた私に、会うことはなかっただろう。この絵を見ることができた小さな積み重ねに、私に初めての気持ちを教えてくれたこの絵に感謝する。

(高等部1年生 女子)

立教では、外国語の個人レッスンを受けている者も多いが、それと同じくらいに楽器の個人レッスンで音楽に親しむ者も多い。
「あの楽器を弾けるようになりたい。」−初めて挑戦することもあれば、
「今まで続けて来たこのレッスンにもっと磨きを」…自分の技を高みに引き上げる生徒もある。
それらは学期末のスクールコンサートを発表会として披露されるが、
単調かもしれない練習のみちのりに刺激を与えるのが、MUSIC FESTIVAL。
習いたての人も、それなりの技量を持った人も、レベルに応じて好きな楽器でがんばり続ける人々が集まって小さなコンクールが各地で開かれる。

終わると順位がつけられ、表彰状やメダル、カップを授与される。
実は、このコンクールはちょっと不思議。
聴いていて「この人うまいなあ。あんなにはやくて複雑な音階を見事に弾きこなした。」「力強い演奏で引き込まれた」などと感心した演奏者がナンバーワンにならない妙意。それぞれの持っている技量からどれだけ高く幅広く自分自身を伸ばし、豊かな表現力を可能にしてきたかなのだろう。
表彰のときには、賞の如何にかかわらず、演奏者一人一人のため、審査員が褒めたり、弱点やアドバイスをコメントしてくれる。丁寧に書いた講評用紙までもらえる。この用紙が「ヨシ。次もがんばろう。」とエネルギーを与えてくれる。

今年のフェスティバルには7名の生徒が出場。
ピアノデュエット部門では1位から3位までを独占する快挙を成し遂げた。

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