5月末、高校3年生の引退試合が相次いで行われました。
20
日(金)は女子バスケットボール部vs教員。
21
日(土)は男女バレー部がEpsom collegeにてEpsom Cup争奪リーグ戦。
22
日(日)は卒業生が所属するロンドン社会人サッカーチームとの対戦。
翌週には男子バスケットボール部とバドミントン部が高3vs後輩との試合を行い、これらの試合を最後に高校3年生は部活動を引退しました。
 
女子バスケットボール部の試合には、現役時代、球技大会でMVPを獲得したこともある卒業生の塚田さんが、急遽教員チームに参加。また、サッカー部はこの日のためにわざわざ日本から卒業生の忠政さんが、ドイツからは吉田さんが駆け付けて下さいました。結果は3-3の引き分け。あと少しという惜しい試合でした。
男子バスケットボール部は後輩に圧勝。男女バレー部も今まで以上に良い試合をし、高校3年生の意地を見せてくれました。
 
これからは大学受験に切り替えていく高校3年生。彼らが部活動に対して熱心に取り組んできた姿勢を見て、後輩たちもこれからますます真剣に取り組んでいくことでしょう。

                                          

立教のHPを拝見させていただきました。相変わらずの恵まれた環境で学生さん達が生活できるのは、うらやましいです。僕が中2のときに入学した時はまだプレハブ時代でしたから、建物など随分と立派になったと感じました。
また、写真でお世話になった多くの先生方がまだいらっしゃるのを見て、思わず嬉しくなりました。当時反抗ばかりしていた自分が恥ずかしいですけど、まだ皆さんがいらっしゃる間に立教にお邪魔したいものです。
Science Workshop
は素晴らしい企画ですね。うらやましい!自分も30代半ばとなり随分と頭が固くなってきたことを嘆いていますけど、柔軟な10代からそのような経験ができることは、本当に恵まれていますね。
人間は自分のもった夢の大きさ以上の人間にはなれないと思っていますので、生徒の皆さんには大きく夢を持ってほしいものです。

被災地で思ったことのレポートと写真を添付しました。今後も、僕にできることがあれば何なりとおっしゃってください。

 

   *   *   *   *   *

 

【未来への切符被災地での2週間】

 

18期生 渡瀬剛人

2011年3月11日。テレビの津波映像から目を離せなかった。オレゴンにいた自分は、その現実を実感できないでいた。しかし何回もその映像を見せられるうちに、それが現実であることを無理矢理押し付けられた。すぐに被災地に飛び立ちたいという衝動と仕事と家族に対する責任の狭間で、心は揺れ動いていた。二週間後、自分は被災地、本吉(気仙沼市近郊)にいた。

被災地に向かう車の中からみる景観には驚かされた。大地震が起こったはずなのに、何事もなかったかのように建物は整然と立っており、道路は滑らかで、畑には農作物が植わっている。しかし、ある点を過ぎたら全てが変わった。建物はおろか秩序そのものがなくなっている。変わりに、ゴミの山と混沌が辺りを支配していた。

着いたのは本吉市にある市民病院。30床ほどの小さな2階建ての病院。倒壊は免れたが、津波時には1階は水没。1階にあったCT、検査機器、カルテ、エレベーターなど全てが使い物にならない。電気のスイッチを入れても、スイッチの音だけが悲しく響く。水道の蛇口をひねっても、出てくるのは水数滴のみ。寝食と診察をする2階に荷物をおろし、自給自足の生活が始まるのだと自分に言い聞かせ、寝心地の悪い床で眠をとる。

患者さんは、避難所や自宅などから来院する。一日に200人以上の患者さんが様々な訴えをかかえて来院する。単なる風邪や関節痛から、命に関わる呼吸器疾患、心臓発作、脳梗塞と色々だ。 まず大変だったのは、エレベーターが壊れて使えないので、自力で2階に上がれない患者さんは、担ぎ上げないといけない。また、まともな検査もできないため、医療の原点である問診と診察が大切となる。薬も例に漏れず不足しているために、数日分しか処方できない。こういった状況では最高の医療を求めていてはダメだ。最善の医療を求めようと心に決めた。

東北の人たちは気丈だ。患者さんの中には家を流された人、家族を亡くした人が多くいる。しかし、皆、決して取り乱すこともなく、礼儀正しい。また、それぞれの訴えが氷山の一角であることも知る。ある中年女性が「肩が痛い」という訴えで来院した。肩の痛みに対して痛み止めを処方して帰そうとし、何気なくどうしたのかと聞いたところ、聞き入らずにいられなかった。その女性は津波に流され必死で家の屋根にしがみついていたところ、流れてきたタンスがぶつかってきて肩を痛めたとのこと。その衝撃でまた更に津波にのまれ、どうして自分が助かったのか分からないと小声で言っていた。被災地では、単なる「肩の痛み」が、とてつもない重さをもつのだ。

被災地での活動が終盤に差し掛かってきた頃に、ふと疑問がわいてきた。自分は多くの患者さんを診てきたが、果たしてどれほど役に立ったのか分からなかったのだ。自己満足に浸っているだけかもしれないという不安がよぎった。そんな時に出会った、ある患者さんのことが忘れられない。この患者さんは初老の女性であり、コレステロールの薬を処方してもらうために来院していた。

女性:(薬を胸に抱きしめ)先生、本当にありがとうございます。これで助かりました。ホッとしました。

自分:薬ぐらいでそんなに感謝しないでください。こっちが恐縮するじゃないですか。

女性:(しばらくの沈黙の後に)私は、赤子の孫以外の家族全員を津波に奪われました。孫にとって唯一の肉親が私です。孫が成人するまでは私は頑張らなきゃならんのです。病気にはなれんのです。この薬は他の人にとっては単なる薬かもしれんけど、私にとってはかけがえのないものなのです。この薬は私にとって未来への切符みたいなものです(そう言って彼女は大切そうにその薬をしまい、お辞儀をしながら部屋を出ていった)。

被災地で医者として何ができたか?正直、大きなことは何もできなかった。 しかし、薬を処方すること、手を握ること、話を聞くことは何十回、何百回としてきた。そういった行為が、患者さんにとって未来への切符ともなればいいかと、少しだけ安堵の表情を浮かべながら自分は被災地をあとにした。

 

   *   *   *   *   *

 

渡瀬さんが現在勤めているOHSU-Oregon Health and Science University

救急科のHP

http://www.ohsu.edu/emergency/news/

        

今年もReigate & Redhill音楽祭に本校の生徒が参加しました。
ピアノ部門のうち4つのクラスに7組、木管楽器部門の2つのクラスに2組、クラシックギター部門の2つのクラスに2組がそれぞれ参加してきました。
本番は本校の球技大会の直後であったため、生徒たちは忙しい時間の合間を見つけて練習に励み、演奏の結果6名の生徒がメダルを獲得することができました。
そのなかで、ピアノデュエットの部門で演奏した高校2年生の2人組が、音楽祭全体から優れた演奏者を集めて開催されるフェスティバルコンサートに出場依頼を受け、多くの観客の前で堂々と演奏してきました。

       

Xの肖像」

私のXは祖父です。祖父と私は、毎日会っているのにあまり2人では話しません。祖父はお花を作る仕事をしているため、手は力強く、厚いけれどとても優しい手をしています。普段は普通のおじいちゃんだけど、笑うと私までもが笑ってしまうような生き生きとした笑顔をします。
私が中学生になって生け花を始めた時、祖父はものすごく喜んでくれました。そして作品を見せた時も、
「よくできてるじゃない。」
といつも白い歯をみせて笑ってくれました。
私がイギリスに行くと祖父に伝えた時、
「自分で決めたのなら、しっかりとやってきなさい。」
といつもの笑顔ではなく、険しい表情で言われたので正直、少し戸惑いました。本当は父や母、友人のように、
「頑張ってね。英語話せるようになってきてね。」
と笑顔で言ってほしかったのです。
イギリスに旅立つ日が近づけば、近づくほど皆からの期待はどんどんおしせまってきました。出発直前に言われた、
「体に気をつけて、辛くなったらいつでも帰ってくるんだよ。」
という祖父の言葉と白い歯をみせながら笑っている祖父の笑顔が、大きな期待を背負った私の今でもここで頑張る元気の源となっています。多くの人から「頑張れ」という言葉をもらうのはすごく嬉しかったけれど、そうではなかった祖父は私の一番の理解者かも知れません。

         

いつも母校から配信される情報を楽しみに見ております。
私は一期生の中本と申します。立教英国学院開校時の19名の中の一人です。

私は1983年に日本航空に入社し、1997747-400の機長に昇格し、20112月にジャンボがなくなるまでジャンボ機一筋で世界中を飛んでおりました。現在はJALの子会社のJ-AIRと言うところに出向して、CRJという50人乗りの小さなジェット機で日本国内の小さな空港を飛んでおります。

そんな私のジャンボのフライトで特に印象に残っているフライトをご紹介します。
ひとつは、立教英国学院20周年式典の時に、当時の宇宿校長に招待され、やはり一期生の松木と乗務を合わせてロンドン便を乗務したときです。立教英国学院の初代校長、縣先生に我々の便に乗っていただいたことです。このことは立教英国学院通信122号にも掲載されています。

もうひとつは、昨年2010サッカーワールドカップのときに日本サッカー協会からご指名を受けて日本代表を乗せて合宿地スイスのジュネーブへのフライトを担当させてもらったことです。私はサッカー関係の活動もしており、日本サッカー協会とはいろいろつながりもあり、今までにも何度も日本代表のチャーター便を担当していました。それについての記事が出発前の朝日新聞の夕刊にのり、「必勝機長」として出発前のセレモニーで、岡田監督に記念品を渡しました。その報道は次の日の新聞全紙一面に写真入で報道され、その他にもいろいろな雑誌で紹介され、テレビでは私の話題で全局ワイドショーで紹介され、中でもみのもんたの番組では、出発前の単独インタビューも放送されました。現在ではいろいろな学校から講演も依頼されています。

すでにこの話題も1年前のことですが、立教英国学院から巣立ったこんな私がパイロットと言う人の命を預かる仕事を任され、さらに時の人として活躍する姿を、現在立教英国学院で学んでいる学生さんたちに伝えていただければ、少しでも皆さんの励みになると思い、メールさせていただきました。

一期生は数年に一度程度ですが、集まって当時を懐かしんでおります。還暦の時か、50周年の時にはみんなで母校に行こうとも言っております。
また皆様にお目にかかれる日を楽しみにしております。

 一期生 中本 洋一

          

3週間の抱卵後、雉のヒナがやっと孵りました。孵化した翌日、新しい世界への巣立ちが始まりました。

草原の中の巣と違い、職員室の入口横の花壇の中に作られた巣は、キツネ、アナグマ、イタチ等の外敵からは安全だったものの、まず乗り越えなければならないのは、花壇から1.5メートル下の階段への大ジャンプです。

流石に母鳥はその危険を察知し、何と落下地点で自分をクッションにして待っています。

決心がつかずに鳴き声をあげるヒナ、下から懸命に呼ぶ母鳥、何とも微笑ましい光景でした。

母鳥の背中に上手く着地できたもの、失敗したもの、数えてみると何と17羽ものヒナが孵りました。

全員が大ジャンプには成功したものの、これで終わりではありません。

落下地点で母鳥の温かい羽の中で30分ほど休憩した後、次の挑戦は、5段の階段を下りることです。

一段一段母鳥の声に励まされて階段を下りていきますが、なかなか降りられないヒナに生徒達から「頑張れ!」の声援が掛かります。

2段降りた所でまたもや母鳥の羽の中で休憩。

ここで大異変です。

何とここで力尽きたのか、次々にヒナ達が倒れていきます。

「頑張れ!」の声を掛けていた生徒達もこの光景に声もでません。

5羽のヒナがぐったりと倒れ力尽きてしまいました。

母鳥とともに12羽のヒナ達が森の中に帰っていきました。

自然の持つすばらしさと残酷さを同時に感じた土曜日の朝のドラマ、12羽の無事な成長を願わずにはいられません。

ページ
TOP