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小学5年生の9月、私は立教に入学した。当時は見るもの全てが新鮮で、どんなに些細な事でも感動していた。そしてその感動を与えてくれる先輩方に、強い憧れを抱いていた。
中学1年からは、クラスメイトがうなぎ登りに増え続けた。教室は徐々に賑やかになっていった。それにつれて先輩との関わりは減っていった。しかし先輩たちへの憧れの気持ちは、無くなるどころか、増す一方だった。

中学を卒業し、高校生になった。憧れていた高校生活は、今までの生活と何も変化がなかった。今まで通りの毎日に落胆した。同時に焦りと不安を感じた。しかしその気持ちの理由は、当時の私にはわからなかった。

そして2016年春、ついに学校の最高学年になった。「あんなに輝いて見えた高校3年生の生活も、結局はほとんど変わらないな。」最初はそう思った。しかし、違った。私が変化に鈍感だっただけで、実際は変化は徐々に着実に起きていたのである。自分より上の学年がいない。頼れる人がいないのだ。そして自分たちが後輩に頼られる側になっていた。こんなに当たり前のことに私は気付けなかったのだ。後輩の面倒を見たり、注意したりしている同学年の子を見てやっとわかった。そしてその瞬間、初めて自分が高校3年生になった実感が湧いた。抱いていた不安も消えた。

「今まで憧れて追いかけてきた高3に、本当になれるのだろうか。」今思えば、これが一番の不安の要因だった。良いか悪いかは知らないが私は誰が何と言おうが高3だ。そしてあと1年しないうちにここを去る。限られた時間を最大限に使って、「最高の高3」になりたい。そしてその姿から後輩が何か感じ取ってくれるならこれ以上の幸せはない。

(高等部3年生 女子)

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授業が終わり、シャワーに入り、30分後には、また教室にいる。ギターの音、後輩たちが部活に向かう声、小学生たちが仲良く遊び楽しんでいる声、こんな音を耳にしながら僕は教室で放課後、勉強をしている。

よく、1年前を思い出す。自分たちが部活に行く途中で教室で勉強を黙々としている高校3年生の姿。そんな姿と今の僕は、重なっているのだろうか。そう思うとなんだか不安だ。刻々と時間が過ぎていき、受験という壁に当たるからだ。

ハーフターム後、模試の結果が返ってきた。これもまた、僕を不安にさせてくる。
しかしそんな中、先輩たちは、壁を乗り越えていった。
尊敬する一方、自分もという気持ちが出てくる。こう思うと不安よりも期待の方が大きい。

母親から、一通のメールが来た。
「自分の努力というパワーで高い壁を乗り越えていきなさい。」
受験を反対していた母からのメールだった。
涙が出た。よりいっそう、スイッチが入った。

今後、おそらく、家族にはいろいろな迷惑をかけるだろう。だからこそ、自分が決めた道を進みたい。
そんな事を思った今日であった。

(高等部3年生 男子)

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受験をするか悩み始めたのは高校2年の3学期で、人の意見に流され続けて気がつけば高校3年になっていた。受験をするのだろうと他人事のように思いながらも、両親の前ではついごまかしてしまう。良い大学に行きたいという思いと、失敗するのが怖いという思いの狭間で私は常にプライドと戦っていた。

私の人生を列車に例えるなら、それはもう快適で何不自由のない安全なものだったと思う。なぜなら今まで歩んできたレールは両親が選んでくれた道で、何があっても守ってくれるという保証があったからだ。もちろん歩む以上は後悔しないように努力してきたが、高校3年になって、時折何とも知れぬ恐怖に悩まされるようになった。私の目の前の安全だったレールがなくなっていく感覚だ。そして私はそれが何を意味するのかを知っている。これからの新たなレールを作っていくのはもう両親ではなく、自分であるということだ。決められたレールの上を安全に歩くことができた私はもういない。あるのは無限に散らばるレールのパーツと、選ぶ責任。既成ではなく未知なのだ。選びようによっては果てしない後悔に嘖まれる恐れもある。こう考える度、私は自己責任という言葉のあまりの重さにパーツを選べなくなってしまう。誰かが決めてくれればいいのに、と思ってしまうのだ。

そんな私に、小さな契機が訪れた。今までどの職業、大学・学部にも興味を持てなかった私に、「行きたい学部」が見えてきたのだ。ジェンダー感やLGBT、また様々な事柄における社会の反応や人々の考え方…。国語の授業中の雑談の一環だったが私にとって恋に落ちるような感覚だった。これだ、これを学びたい、と思ったのは初めてで、たまらなく嬉しかった。意思を失くした私にパーツを選ばせてくれたように思えた。

正直まだまだ断言できるほどしっかりとした進路を立てたわけではない。目指す先が高ければ高いほど失敗した時のことを考えてしまうことに変わりは無い。しかし高校3年になったことを考えると、今更怯えてもしょうがないと思った。初めて自分の意思だけで選んだ道。前向きに努力していきたいと思う。

(高等部3年生 女子)

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活力にあふれた人達。それが、私がここの生徒達を見て思ったことだ。

球技大会は入学してからわずか2週間後に行われる。ここに来たばかりの私は、忙しい寮生活や学校生活に直面していた。慣れない環境の中、放課後には大会の練習が始まり、さらに授業や小テストといった日常があり、私はすぐに心身ともに疲弊した。自分が望んできた学校だから、後悔は微塵もない。だが、一抹の寂しさと戸惑いが私を襲った。単に忙しさに当てられ、疲れて、どこかに逃げ出したいような衝動に駆られそうになった。

そんな時、私を奮い立たせたのは、この学校の生徒達だった。別段、何かしてもらったわけではない。私はただ、生き生きと日常を過ごしている彼らを見ただけだ。放課後は、大会の練習をして、自習の時間ではしっかり勉強する。時間を無駄にせずに日々を生きている彼らを凄いと思った。私もそうなりたい。いや、ならなければならない。負けてたまるか。わたしのちんけな自尊心が垣間見えた。

それから、私は一日一日を大切にするようになった。いつも気を張るのではなく、勉強するときはしっかり勉強し、大会の練習には集中する。時間は、短い休憩を利用したりして、自分で工夫して作る。こういうことをできるようにしていった。

私の参加種目はサッカーだった。この二週間、一生懸命練習した。練習試合では大差をつけられて負けたが、本番では勝つことができた。私はもちろん嬉しかったが、それ以上にチームメイトの活力に感心した。一つ一つのことを一生懸命やっているからこそ、彼らは生き生きしていた。私も、今回の球技大会で、生き生きした彼ら立教生の一員になれたかもしれない。

(高等部2年生 男子)

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「絶対勝つぞ!」「おー!」
同じTシャツを着た五人は円陣を組み、気合を入れる。数十秒後に始まる試合にどきどきしながら、作戦の最終確認をし、細かく足でステップをして、軽くウォーミングアップをした。そして、ブザーと同時にバスケットボールはジャッジの手を離れ、私たちの頭上に上がり、私たちは一斉に動き始めた。私が鮮明に思い出せるのはここまでだ。試合が始まってからのことは、あまり覚えていない。無我夢中だった。

私は今年の球技大会でバスケットボールを選択した。高2のとしての球技大会は今までとは少し違った。今までのように先輩の言う通りに練習しているだけではいけなかった。最高学年を支える学年として、練習メニュー、Tシャツのデザインの相談や決定、後輩に技術を教えることも必要だった。それは大変なことであり、責任の重いことであった。自分は絶対にミスをしてはいけないという緊張感が、練習のときからあった。もちろん、人間にそんなことができるはずがなかったが、私がミスをしてしまったときには先輩が優しく声をかけてくれた。

球技大会は全学年が協力して優勝を目指す大イベントの一つ。協力し合って成り立っているイベントであり、私はそこが大好きだ。試合では、結果的に数点差で私たちのチームが負けてしまった。とても悔しかった。もし、私が打ったシュートが入っていれば同点で抑えられたかもしれないという思いが頭から離れなかった。しかし試合後、同じチームの先輩が私のところに来て、「本当に楽しかった!ありがとう!」と笑顔で声をかけてくれた。その瞬間、私の中のモヤモヤはどこかに消えた。勝敗が関係ない、とは言わないが、今回はそれよりも大事なことがたくさんあったのだ。仲間と協力し合い、声をかけ合い、支えあうこと。仲間が失敗したときには責めるのではなくて、次に生かし、自分もそこから学ぶこと。自分のミスに優しく声をかけてくれる仲間に感謝すること。そして、何よりも笑顔で楽しむこと。

たった二週間という短い期間でこんなにもたくさんの大切なことに気づかせてくれた後輩、先輩に感謝の気持ちでいっぱいである。来年は最高学年として、後輩たちに大切なことに気づいてもらえるように、さらに頑張っていきたい。

(高等部2年生 女子)

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私は今朝まで球技大会が嫌で嫌で仕方がなかった。なぜなら転校してきたばかりの私は、前日にクラスの輪に入ることができず、みんながTシャツにコメントを書いてもらっている横で、結局一言も書いてもらうことができなかったからだ。当日の朝も本当に嫌で仕方がなかった。何もかもすべてネガティブに考えていた。担任の奥野先生には先輩などに書いてもらえばいいとも言われたが、無理だと思った。先輩に頼んだりして迷惑なのではないかと思ったりした。

でも、実際は違った。球技大会が開始したと同時に、寺園さんや金山さんがTシャツにコメントを書いてくれたのだ。私は本当に嬉しかった。最初は早く終わってくれればいいのにと思っていたのが、コメントを書いてくれた人の分も頑張りたいと思うようになった。その後も先輩や後輩がコメントをくれた。実際、他の人よりもコメントは少なかったかもしれないが、一つ一つのコメントにこめられた思いは大きいものであると思う。結局ピンクは負けてしまったが、楽しんで競技ができたし、先輩、同級生、後輩と仲良くなることができたので、本当によかった。

私は最初、人間関係に臆病になっていた。周りの目が気になって本当に怖いと思っていたし、孤独感があった。しかし、コメントをもらった後は、自分がいろいろと考えすぎだったこともあるし、気にしすぎだったこともあると気づくことができた。コメントをもらうというたったそれだけのことが、こんなに気持ちを変えるんだということに気づかされた。

今日は本当に最高の一日だった。そうなったのも、体育委員や先生方のお陰だと思っている。本当に感謝している。ありがとうございました。

(高等部2年生 女子)

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ハーフタームはあっという間に終わりましたが、終わる1日前に、兄が家庭科の宿題でおおさわぎしていました。だから仕方がないから、手伝ってあげました。
何を作ったかというとざる豆腐と親子丼です。僕は作る過程をカメラで撮りました。
大豆を水につけたり、ミキサーにかけたり、お湯の温度を計ったり、とても大変な作業だと思いました。
でき上がったざる豆腐は、しょう油をかけて食べました。とても美味しかったです。親子丼も、たまごがフワフワしていて、美味しかったです。そのやわらかさに、イギリスの美味しいスコーンがなつかしくなりました。母にも試食してもらわないといけなかったので、食べてもらいました。
「兄弟丼だよ。」
と言って出したら、母が笑いました。食べているとき母は無言だったけれど、僕は、美味しかったんだと思っておくことにします。
今度は、僕が母と兄にクリームティーを食べさせてあげたいです。

(小学部6年生 男子)

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ハーフタームが終わる1日前に東京タワーに行きました。起きた時に600段登ることを考えたらいやになりました。セユニはとても楽しみにしていました。
セユニは韓国人のいとこですが、兄弟みたいな存在です。年は10才です。とても元気な男の子ですが、いたずらっ子でもあります。
東京タワーに行く電車の中では、みんな静かにして体力を使わないようにしていました。
いよいよ東京タワーに到着しました。セユニはとてもわくわくしていました。登り切ると認定証がもらえるので、セユニはがんばろうとしていました。いよいよ登り始めました。登ってみると、そこまで大変ではありませんでした。下を見ているセユニがふるえているのを見て、面白いと思いました。頂上まで着くと楽勝だったなぁと思いました。でも、その後、階段を登るときには、階段はもうこりごりだよと言いそうになってしまいました。

(小学部6年生 男子)

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今回のホームステイは、過去2回に比べて一番ホストファミリーとかかわりを持てたホームステイでした。過去2回はホストファミリーと一緒に出掛ける機会があまりなかったのですが、今回はリトルハンプトンのビーチから始まり、近くの村のお祭りやペットワースハウスという昔の領主のお屋敷の見学、日本食レストランなど様々なところに連れて行っていただきました。一緒にビーチをお散歩したり、写真を撮ったり、時には将来の話をしたり、交流を深めながらたくさん学ぶことがあり、充実した一週間でした。

私たちがロンドンに行った際に突然帰りの電車がキャンセルになるというハプニングがありました。慌てて駅員さんに帰り方を聞き家に連絡すると、話がすぐには通じないくらい狼狽えてものすごく心配してくださって、家から少し遠い駅までわざわざ迎えに来てくださいました。私たちが「ご迷惑をおかけしてごめんなさい」と謝っても、「無事に帰ってくることができて本当に良かった。気にしないで。」と言ってくださり、二人の優しさが伝わって、心が温かくなりました。また、今回のステイ先は、娘さん一家がよく遊びに来るお家だったので、4歳の孫のソフィーと生後数か月の赤ちゃんのチャーリーとも仲良くなることができました。ペットワースハウスに行った時、入場料を払おうとしたら「私たちは今週1週間家族なんだからお金はいらないわ」と言ってくださったことが、今回のホームステイで一番嬉しく心に残っています。

私はホームステイの醍醐味は「出会い」だと思います。一週間楽しければ楽しいほど別れが辛くなるのも、ホストファミリーとの素敵な出会いがあるからこそです。今回も素晴らしい家族に出会えたことに感謝して、次のホームステイも実りあるものにしていきたいです。

(高等部2年生 女子)

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僕は今回初めてイギリスの現地校との交換留学プログラムに参加した。現地の同世代の人と今まで関わったことがない僕は、うまく会話ができるか、授業についていけるかなど不安な気持ちでいっぱいだった。交換留学先はギルフォードの街中から少し外れたところにあるGeorge Abbot Schoolというyear7(12歳)〜sixth form(18歳)までの子供たちが通う共学の学校だ。

交換留学に行ったメンバーは僕を含めて5人だった。学校に行く前日に、英語に慣れるために車の中では英語以外の言語を禁止するなどのルールを決めたり、たくさんの人と交流するという目標を立てたりして、新しい挑戦に対するやる気と準備は万端だった。当日朝、他の生徒よりも早く起床して朝食を食べて、学校へと出発した。学校までは先生が毎日車で送ってくださった。

学校に着いてエントランスにはいると、そこで僕たちのバディー(ペアになる相手)が待っていた。お互いの自己紹介が終わるとバディーが学校を案内してくれた。生徒用のiMacのパソコンがあったり、スクールカンティーンの支払い方法が指紋認証だったりと驚くことはたくさんあったが、何よりも僕は建物の広さと生徒の多さに驚いた。聞いた話によるとそこには1700人ほどの生徒が在学しているらしい。150人くらいの日本人生徒と閉鎖された空間で過ごしている僕からしたらそこはまるで一つの市街地のようだった。どこにどの教室があるか五日間いても全く覚えられなかった。学校案内の途中に気付いたのだが、制服に幾つかのワッペンが付いている生徒と付いていない生徒がいた。バディーに聞いたところワッペンは生徒の係や功績を表すものらしい。ちなみに僕たちのバディーはアンバサダーと書かれている、日本語でいうと地域交流委員会を意味するバッジをつけていた。僕は最初それを見た時単純にかっこいいと思ったが、ワッペンが付いていない生徒を見ると何か物足りなく、付いている生徒と比べるとかわいそうに思えた。他のメンバーが、付いていない人が差別されそうでかわいそうと言っていた。確かにその通りだなと思った。

ほとんどの授業は僕が中学の頃に学習した範囲だったので簡単だったが、ラテン語やフランス語の教科は理解できるどころか途中から先生が英語で話しているのかそれとも違う言語で話しているのか、その区別すらつかなくなった。生徒は授業より友達とのおしゃべりを楽しんでいて、とにかく自由だった。日本の授業の雰囲気と全く違い最初は少し抵抗がありうまく溶け込むことができなかったが、僕の目標はたくさんの人と交流することだったことを思い出し、僕も授業よりおしゃべりに積極的に参加することにした。話しすぎて先生に睨まれたり注意されたりもしたが、僕はなんだか現地の学生になれた気分になり、少しばかり嬉しかった。

そのような感じで五日間はあっという間に過ぎた。今回の経験を通じて、僕はもっと広い視野で世界を見ていかなくてはならないと思った。今まで話したことのないタイプの人と積極的に関わったり、新しい発見や経験の毎日で今までに体験したことのない疲労感に覆われたが、これらの経験は将来僕がいろいろなことに挑戦していく上でかなりの強みになるだろう。挑戦は成功に終わったようだ。

(高等部3年生 男子)

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