「知育なしの徳育」などは考えられないことである。

徳育の不足は否めない事実であるが、その状態を
生んできたのは戦後の日本教育現場にはびこった
「児童中心主義」の問題があったからだ。

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基礎的知識が人間の持つあらゆるものを豊かにする。
子供たちにその知識を与え、自分たちで考え表現する
力を養っていくことこそ「徳育」につながる。

 

 

「結婚しない」は個人の自由か
そのうち国も人類も滅ぶ

 

これに対し「安心して子供を産めるような環境を
作る事」「育児手当の増額」「ゼロ歳保育施設の
充実」等々が叫ばれる。

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しかし私は、そのような弥縫(びほう)策は問題の
解決につながらず、かえって状況を悪化させる
危険があるとさえ考えている。

第一に問題とすべきは、男女ともに結婚を急が
なくなった傾向が存在する事である。

私は若い時代、農村の青年団に属して活動して
いたが、青年団で活動するのは二十歳までの
女性であった。成人式を過ぎる頃になると、
それぞれ家に落ち着いて結婚に準備の入った。
結婚しない人は、もしかすると何となく「風圧」を
感じていたかも知れない。

このような「前近代的風圧」を全面的に否定する
事から戦後は始まった。結婚しようがすまいが、
それはあくまでも個人の自由であり、それを
とやかく言うのは封建的外圧というものだとする
のが、戦後六十年の時代風潮であった。

今や、社会の模範として仰がれる人の中でも、
晩婚傾向は著しくなりつつある。なかには結婚
せずに生涯を終わる人も少なくない。

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間違いなく言える事は、このようにして結婚する
人の数が次第に少なくなっていけば、人類は死滅
してしまうと言う事である。それでも構わぬと言う人は
少なかろうが、しかし「人は必ず結婚すべきだ」と
言い切ったら、四方八方から石つぶてが飛んでくる
であろう。

少子化は国をも人類をも滅ぼすが、このあたりを
どのように考えるべきだろうか。

【公開講座のご案内】

今回は7月に実施されます横須賀へのPTA研修旅行に関連して、

三笠公園に展示されている軍艦三笠にまつわる講演をして頂きます。

日 時 : 平成30年6月30日(土) 13:30~

会 場 : 狭山ヶ丘中学・高等学校 講堂(1号館4階)

参加対象 : 本校の保護者・生徒だけでなく、どなたでも参加できます。

講 師 : 狭山ヶ丘中学・高等学校 地歴公民科主任 地挽 保雄先生

講演内容 : 「軍艦三笠と日露戦争」

・参加の申し込みは必要ありません。直接会場へとお越しください。

・上履きは必要ございません。下足のまま入室できます。

 

公開講座のご案内

 

この記事の詳細はこちら→

教員採用試験をやっても人が集まらない。
今年初めての傾向である。人が集まらないわけ
ではないのだが、「実力のある先生」が集まらな
いのである。これまでは、ある科目について採用
試験をやると、いつも三十倍を超える応募者があった。

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英語科の場合、私は極めて楽観的に考えていた。
試験場で問題を見て、「こんなに易しくては、成績に
差が出ないのではないか」と心配したりしたが、
とんでもない。その易しい問題ができないのである。

やむを得ず採用試験を三度行った。その都度新聞
広告を出してだから、その経費も馬鹿にならない。
結局一人も採用する事ができなかった。

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進学校での英語の指導だからと言って、それほど
高望みをしたわけではない。しかし、何とか高校生を
指導できる程度の力のある人物が見あたらないので
ある。

 

「孝」の観念を取り戻そう
学校は親孝行の教育を

 

今日の学校教育では、親孝行は
尊敬や感謝などの価値に一般化
されてしまっている。

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むしろどちらかといえば、親孝行は
人権の平等を否定するものであるか
のごとく敵視されがちである。

しかし親孝行は、我が国にあっては
国民道義の根底をなす価値であった。

アメリカ占領軍は、わが国に対する
思想的武装解除の一環として、伝統
文化の全面否定を強要したが、その
中で親孝行は特に強く否定されたも
のの一つである。

戦後もすでに六十年を過ぎた。
いつまでもこのような思想的強要を
引きずっていてはなるまい。

(心の生涯学習誌 玲瓏 れいろう平成18年3月号掲載)
(特集 孝心を育てる―孝は百行の本―)

「孝」の観念を取り戻そう
孝は人間形成の大前提

 

アメリカの二十世紀前半を代表する教育学者
ジョン・デューイは、「子どもは教育の主体で
あって客体ではない」と言っている。

決して間違った考えではない。

だがここで忘れてならないのは、発達段階
という問題である。

人は生まれた瞬間から人間なのではない。
放置しておいて、ひとりでに人間に育ち
上がっていくものでもない。我々はすべて、
周囲を取り巻く多くの方々の力によって、
「人間にしていただいた」のである。

人間に”なった”のではない。”していただ
いた”のだ。

戦後は、「倫理規範は教えてはならぬ。
それは子ども自身が内面形成していく
ものだ」というような考え方が支配的で
あった。

デューイに傾倒するあまり、発達段階と
いう発想が欠落してしまったのである。

そのような人々に私は尋ねる。乳飲み子
は、いかにして教育の主体たり得るのかと。
小学生も三年生になるくらいまでは、親や
保護者を絶対の存在と考える。先生にさえ
よく思われれば、仲間からはなんと思われ
ようと構わないというのがこのころである。

そのような時期には「殺すな」「盗むな」
「嘘をつくな」をいうような根本的価値を
たたき込んでおかなくてなならない。服従
の大切さを教えていかねばならないのも
このころである。

「教育勅語」が、国民のあるべき姿を示す
徳目の冒頭を「父母に孝に」という言葉で
飾ったのも、この消息を深く意識したからに
はほかならない。

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孝を最高の徳と心得、親の教えに忠実に
従っていこうとする人間であって初めて、
親の教えに素直に、忠実に従い、深みの
ある人間性を養うことができる。

戦後思想は、親孝行を”親を大切にすること
だ”と考えがちであった。「親への孝を教える
のは、親の利己心を子どもに押しつけることだ」
と考えがちだったのである。

しかし、親を敬い、親を大切にする心が育って
いなければ、子は、人間として健全な成長を
遂げることができない。

師への尊敬も同様である。その尊敬によって
利益を受けるのを潔しとしない傾向が、今日の
学校には溢れている。

卒業の際の「謝恩会」に違和感を抱き、これを
「卒業を祝う会」としなければ納得できないなど
という傾向も、この流れに属するものである。

しかし親への孝養は、子が親を大切にすると
いう責任を果たすだけではなく、子が人間として
健全に育っていくための絶対的前提でもあった
のである。

まさに「孝は百行の本」であることを忘れてはならない。

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人は、誰しも年老い衰える。醜くもなっていく。
それは我々の愛しい子どもたちとて例外ではない。

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やがて彼らも年老いていく。体力も衰え、気も弱く
なった頃に、彼らがその子に―我々からいえば孫の
世代に―見捨てられて寂しい晩年を過ごすことに
なるかもしれぬことを、我々は忘れてはならぬ。

それは我々にとり耐え難いことだが、そのとき、彼らの
幸せを自分の命よりも大切に思っている我々は、もう
この世にはいないのである。

 

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やはり、その子ども、次の子どもというふうに、人が
安心してよりどころをできるような家庭が形成される
社会的循環を、我々は準備しておかなければならない。

それこそが「孝」の教育にほかならないのである。

 

 

試合結果 BEST16!

VS 東京立正高校(東京都代表)

2-1(勝)

VS 巨摩高校(山梨県代表)

2-0(勝)

VS 高崎女子高校(群馬県代表)

0-2(負)

 

第72回関東高等学校女子バレーボール大会

 

試合結果の詳細とこのほかの画像はこちらへ→

※部活動ページから女子バレーボール部を選んでクリックしてください。

親、とりわけ父親を民主主義の敵と見る戦後思想は、
学校からも家庭からも「親孝行」という言葉を放逐した。

学習指導要領のどこをひっくり返してみても「孝」と
いう言葉は出てこない。そのためであろう、今や我が
国の家庭は、子育てのためだけの場になってしまっ
ている。

父母は限りない愛情を持って子を慈しむが、子は育ち
上がってしまうと、親との同居を望まない。親が、起居が
ままならぬようになっても、同居して面倒を見るという
ようなケースは少ない。

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よくしたもので、親の方でも「私たちは自分たちでしっ
かりやっていくから、一緒に暮らしてくれなくてもよい。
あなたたちは自分のことだけをしっかりやりなさい」など
と、我が子が幼い頃から語り聞かせたりしている。

結局、親の老後は、老人ホームなどの施設に丸投げ
されてしまうのである。

だが老人ホームなどの施設は、必ずしも老人の幸せを
保障できるものでないらしい。他人が老人のお世話を
するには限りがある。

例えば、日に何度も粗相を繰り返すような老人に対して、
他人である施設の勤務員が、果たしてどこまで親身に
そのお世話をすることができるのであろうか。

施設内の温度一つにしても、寝込んでいる老人と
働いている勤務員とでは適温の水準に違いがある。

又、人間は常に他人からの愛や信頼や尊敬を貪婪
(どんらん)に求める生き物である。老人介護施設に
それを求めることは難しかろう。

もちろん、親身も及ばぬまごころで介護に当たって
いる方も少なくはないだろうが、親の面倒を見る第一
の責任は、その子どもにある。

少子化の今日、それは困難な課題かも知れぬが、
子はその責任を自覚し、まごころを込めて親の老後
の面倒を見なくてはならない。

介護に疲れ、弓折れた矢尽きたとき、そのようなときに
初めて頼るべきものが老人介護施設だと私は思うので
ある。

親子三世代が同居している家もある。そのような家庭
にあっては、老人は若者の若さ、幼さに触れて、日々
安らぎを得るであろう。

又、若者は、老人の熟成した智恵に学ぶことができる。

「それはお父さん、お母さんだけでは決められません。
お爺ちゃんに伺ってみましょう」「そのことはお母さんに
も分かりません。お婆ちゃんに教えていただきましょう」

そのような人間関係があってこそ、家庭は、人がその
全生涯を託すことのできる安心の場となるのである。

 

 

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