2学期が始まり、およそ2週間が過ぎようとしています。
生徒たちも学校生活のリズムを取り戻し、規則正しい生活を送れていると思います。
さて話は変わりますが、生徒たちが夏休みの間合宿を張ったり、懸命に勉強したりしてレベルアップを図っているように、教員も夏休みの間研修に参加しレベルアップを図っています。
今回の記事では、夏休みの間日本大学の短期Cという制度を利用して研修を行った英語科の山下先生の様子を紹介したいと思います。
まずは、山下先生から研修についてのコメントを頂いているのでそちらをご覧ください。
アメリカ文学と文化に関する調査
7月22日から8月5日までの2週間、短期Cを利用し、アメリカで研究する機会をいただいた。
アメリカでの派遣先はマサチューセッツ州セーラム、コンコード、ボストンを選んだ。
派遣地を選定した理由はアメリカ文学のなかでもハーマン・メルヴィルとナサニエル・ホーソーンの作品に興味があり、特にナサニエル・ホーソーンが生まれ育った街を見てみて、その生活環境が作品の中でどのような影響を与えているかを知りたかったためである。
また、ハーマン・メルヴィルの作品「白鯨」の主人公イシュメールが捕鯨船から見た鯨が実際にはどのように見えていたのかを実体験できるからである。
さらに、教科書や問題集にアメリカの大学や教育、人種問題、野球、大統領、美術、歴史などが頻出するので、それらを現地で実際に視察し、それらがどのようにアメリカ文化に影響を与えているのかを確認できるからでもある。
ナサニエル・ホーソーンは1804年7月4日にマサチューセッツ州セーラムで誕生した。
4歳の時に黄熱病のため父を亡くしている。姉のエリザベスと妹のルイーザの3人兄弟である。
1842年にソフィア・ピーボディと結婚し、マサチューセッツ州コンコードの旧牧師館で新婚生活を送る。1844年に長女ユーナが誕生し、2年後の1846年には長男ジュリアンが誕生する。
幸せな生活が続いていたが、1849年7月に母エリザベスが他界する。
母の死の直後から作品「緋文字」を執筆し始め、翌年の2月には完成をさせ、出版した。初版2500部は10日間で完売したのだが、ホーソーンに入った印税収入は微々たるものであった。
出版したにも関わらず、経済状態が好転しなかったため、マサチューセッツ州バークシャー郡レノックスに引っ越し、ここで15歳年下のハーマン・メルヴィルと知り合うことになる。
1851年、ハーマン・メルヴィルは作品「白鯨」を完成させ、この作品をホーソーンに捧げていることから、ホーソーンへの敬意がうかがえる。
Old Corner Bookstore(オールドコーナー書店)はホーソーンなどの文学書が集まり、語り合った場所である。
残念ながら現存しておらず、メキシコ料理の店になっていた。
幸い店の壁面にオールドコーナー書店の店名と文豪たちの肖像画が残されていた。
車が多く通り、騒々しいので現在ではとても落ち着いて話を出来る場所ではないと感じた。
日本では「大きな栗の木の下で」の作詞者として知られているロングフェローの邸宅を視察した。
彼の邸宅には多くの文学界の人々が訪れており、ホーソーンも訪問している。その証拠に書斎にはホーソーンの肖像画が飾られていた。
ホーソーンの作品「緋文字」の舞台になっているキングスチャペルを視察した。
1686年に創設し、1754年に改修され、現在の建物となっている。塔がないので、教会としてはとても珍しい設計である。
作品ではアーサー・ディムズデール牧師が務めていた教会である。また、もう一人の登場人物へスター・プリンが罪を犯したため「赤い布地にAの字を縁取ったものを生涯胸に付けること」と「一定期間壇上に立ち、群衆の視線にさらされること」が科せられた場所がこの教会のすぐ軒先にある設定となっていた。
現在ではその一種の処刑台のような場所はなかった。
もし今日登場人物が教会の前に立つことになれば、人も車も多く通る主要道路に面しているため、数時間で1万人程の人に顔を知られることとなったであろう。
罪人として周知されてしまえば、生活をするのにも様々な点で支障があったであろうと思った。
もう一人の作家ハーマン・メルヴィルの作品「白鯨」でボストン南東の方角にあるナンタケット島が出てくる。
この島は当時捕鯨産業の中心地で、鯨油を原料にロウソクを製造していた。
この島から「白鯨」の主人公イシュメールがエイハブ船長のピークド号に乗船し、出航をした。作品には白い抹香鯨のモビィ・ディックが登場し、この鯨を巡って話が展開をする。
ナンタケット島へは行けなかったが、船から10メートルと離れていないところで鯨を目にし、想像以上の大きさに驚いた。
あの巨大な鯨に捕鯨船の乗組員が銛一つで挑んでいたことは彼らの勇敢さの証だと思った。
1912年に建設されたメジャーリーグ最古で最小のフェンウェイパーク、1636年にジョン・ハーバード氏の後援によって創立されたハーバード大学、第35代大統領ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ大統領の生家、ボストン美術館を視察した。
フェンウェイパークを視察した日には試合がなく、球場内のみの見学であった。
それにもかかわらず、多くのアメリカ人が参加していたので、アメリカにおける野球への関心、特に地元チームへの愛着が感じられた。
Stadium(野球場)と言うべきところをPark(公園)と呼んでいるので、それだけ誰もが行きやすく、アメリカ文化の中に溶け込んでいる場所であると感じた。
ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ氏はアメリカ初のアイルランド系カトリック教徒の大統領である。
しかも、42歳というアメリカ史上最年少の大統領でもあった。
就任演説の「国家が国民のために何をしてくれるのかを問うのではなく、国民が国家に対して何をなし得るかを問いたまえ。」はあまりにも有名なスピーチである。
残念ながら、1963年11月22日、テキサス州ダラスでのパレード中に凶弾に倒れてしまった。志半ばであったためか、多くのアメリカ人が訪問しており、50年以上経った今でも根強い人気が感じられた。
どの視察地にも多くのアメリカ人が訪れており、アメリカの中でも広く認知されている場所のため、日本の教科書や問題集にも取り上げられているのだと思った。
また、視察地には歴史があり、これらの場所で起きたことがアメリカの生活や文化に深く影響を与えていると感じた。特に、ボストン美術館ではヨーロッパ美術、古代美術、アジア美術、南北アメリカ美術がそれぞれの存在を主張しながらも、混ざり合っているように見えたので、そこではアメリカらしい多様性を感じた。
その多様性がアメリカの文化に影響を与えているのだと思った。
日本大学明誠高等学校 英語科 山下雄一郎
山下先生は2週間というアメリカでの滞在期間の間に、教科書や問題集に取り上げられている舞台を現地で見て来て、英語とその背景にあるアメリカ文化への理解を深めたようです。
この経験を生徒に還元し、より深みのある授業が展開されていくことになると思います。
今回紹介した山下先生を始め、夏休みの間多くの教員が様々な場所で研修に参加して勉強を行っています。
教員が勉強したことを生徒に還元することで成長を促し、生徒も自分の疑問をぶつけることで教員の成長を促していく、そのような関係を築けていけたいいですね。
