冷凍(シバレ)いも物語(4)

 

完全に乾燥すると、父はそれを俵に詰め、
物置にうずたかく積み上げた。 この「乾燥
しばれいも」を食うときには、臼に入れて
杵でつくのである。

最初は、ぱさぱさ、ころころと臼の中で
逃げ回るが、根気よく真ん中の一カ所を
ついていると、いもはネズミ色の粉になって
落ち着いて来る。

それをさらに根気よくついていると、非常に
きれいな、しっとりした粉末になるのである。
これを水でこねてフライパンに広げ焼いて
食う。

ただの澱粉と違い、いもの 繊維が混じって
いるので絶妙な味がする。あるいは、冬から
春にかけてのある 種の発酵も、その味に
関わっているのかも知れない。

今振り返って、父が有していた生活力の
たくましさ、賢さには一驚せざるを得ない。

彼は一体どこで、あのような生活の知恵を
身につけたのであろうか。 今日は豊かな
時代である。だが、食糧難時代が再び
やって来ないという保障はない。

先人の、生きるたくましさと賢さが懐かしく
偲ばれるのである。

(完)

冷凍(シバレ)いも物語(3)

 

だが父は少しもたじろがない。すでに大量の
四斗樽を買い込んでいて、この中に、その
「腐った」いもを入れろと私に命ずる。中学一年
の私にとり、それは大変な仕事であったが、
父の命令とあれば嫌だというわけにもいかない。

その指示のまま、何日もかかり、そのいもを四斗樽
に移した。そして満々と水を 張った。

今度は、その水のすべてを毎日入れ換えなければ
ならない。今のような水道の時代ではない。ゴックン、
ゴックンとポンプを押し、10本近くの四斗樽すべ てに
水を満たさなければならないのである。樽を傾けて、
いもをこぼれさせず、 水を捨てるだけでも楽な仕事
ではなかった。

それに「腐っている」のだから、 臭いもすごい。

しかし、半月もするうちに、臭いは全くなくなり、水も
きれいに澄んで来た。 その報告を受けた父は、
むしろを庭先に並べ、その上に「しばれいも」を広げ
させた。天日で乾燥させようというわけである。雨の日
の取り込みは大変であったが、そのうち、いもは、
からからに乾燥してきた。いつの間にか皮は取れて
しまい、「実」だけが、もとの五分の一くらいの大きさに
なって乾ききっていた。

丁度ネズミ色の軽石のようであった。

 

その4につづく…

冷凍(シバレ)いも物語(2)

 

私は、「こんなものをどうするのだろう。」と
思いながら仕事を続けた。広大な畑の
あちこちに散らばって、父、姉、それに
おばさんが、同じような仕事を 続けている。

半日で馬車に山盛りになるくらいのいもが
取れた。 この日あるを期していたらしく、
父は初秋の頃、石狩川の岸辺で大量の
葦を刈り取り乾燥させていた。物置に
何段もの棚を作り、その上に葦を並べると、
彼はそこに「しばれいも」を広げたのである。

何段もの丈夫な棚がたわむほど大量のいも
であった。北海道の冬は寒い。本州の人々に
想像できるような寒さ ではない。その寒さの中
で、「しばれいも」は、さらにかちかちに凍って
冬を越した。 しかし北国にも春は訪れる。気温
が暖まると共に、それまで凍っていたいもは、
異臭を発してとけ始めた。並大抵の臭いでは
ない。

「全部腐った。」とつぶやきながら、私は父の
実験が失敗に終わったと思った。

 

その3につづく…

冷凍(シバレ)いも物語(1)

狭山ヶ丘高等学校長 小川義男

昭和20年(1945)は百年に一度という凶作であった。

この年の8月15日に、 日本は英米との戦争に敗れた
のだが、戦争による物資不足に凶作が重なり、冬を
越すまでには相当数の餓死者が出るだろうと言われ
ていた。

田植えの頃に雪 が降ったし、晩秋になっても、稲の
穂は頭を垂れず、真っ直ぐに突っ立ったま まだった。
十月末の北海道は寒い。畑は冷たく凍りついている。

ある日曜日、父は「畑 のしばれいもを10町歩
(10ヘクタール)分買ったから、拾いに行く。」
という のである。

父と姉、それに私と親戚のおばさん、計4人で4キロ
離れた現場に 「しばれいも」を拾いに行った。 当時の
北海道でも、ジャガイモの栽培には、すでに「大農法」
が用いられていた。芋掘りも、手で掘るのではなく、
馬に引かせたプラウ(鋤・スキ)で畑を ほっくり返し、
いもを露出させた上で拾うのである。当然プラウの刃で
切られ る芋も出るし、半ば土をかぶったままのものは
見捨てられてしまう。それが晩秋の寒さで凍りつき、
畑にこびりついている。それが「しばれいも」なのであ る。

タマネギの凍ったのも、ミカンの凍ったのも、味は落ちるが、
何とか食うこ とができる。しかし、いもの凍ったやつだけは、
食うことができない。煮ても焼いても食えない代物なのである。

食糧難の時代ではあったが、凍った馬鈴薯に目を向ける者
はいなかった。父はそれを、10ヘクタール分買い占めたと
いう のである。

大きな籠を背負い、先に釘を打った棒きれでいもを突き刺す。
二本の長い釘 を打ち込み、反対側に交差して突き出させて
ある。この鋭い二本の釘で、いもを突き刺して拾うのである。
日中は畑の土も暖まっているから、いもは面白いように取れた。
こんと刺し、背中の籠の縁にたたきつけて中に落とす。見る間
に籠は、凍ったいもで一杯になった。

 

その2につづく…

光り輝く「原石」を発掘し、

それを磨きあげていくのが、

狭山ヶ丘です!

 

第1回入試個別相談

10月 21日(土)

13:30~16:00

入試個別相談には、私たちを「感動」させるような資料をお持ちください。
なお、事前の連絡は不要ですので、13:30~16:00の間にお越し下さい。
私は、人間というものは、たとえていえば、ダイヤモンドの原石のような性質をもっていると思うのです。すなわち、ダイヤモンドの原石は、もともと美しく輝く本質をもっているのですが、磨かなければ光り輝くことはありません。 (松下幸之助「人生心得帖」より)

 

詳細はこちらです

熊の話(9)

昔の北海道で、熊より恐れられた
のは狼である。

狼は群棲して山野に 跳梁(ちょうりょう)
する。牧場を襲ったりして牛や馬を
殺して食い、農家の庭先に現れて鶏を
盗んだり した。

四十匹程度の群れをつくって行動した。
これが北海道狼の命取りになった。 その
及ぼす惨害は、ひととおりのものでない
から、時には軍隊まで出動して駆除した
のである。

機関銃で狼の群れに射撃したというから、
壮観な光景だったであ ろう。 熊は一山一穴
(いちざんいっけつ) の原則を頑(かたく )な
に守る。

危険ではあるが、人間に取り根絶やしにせねば
ならぬほどの危険さではない。かくして北海道羆
(ひぐま) は根絶を免れた。

今は初夏、熊に取り最も過ごしやすい季節である。
彼らは、この優しい季節の北海道を 楽しみ、もしか
すると、スミレの美しさに、うっとり見とれたりしている
のかも知れない。

(完)

『狭山ヶ丘通信第12号より』

熊の話(8)

当時聞いた話だが、熊は毛皮と胆嚢
(俗に言う熊の胃)が高く売れる。両方
とも、 ほぼ同じ程度の値段だったそう
である。

熊の胆嚢は、切り開いて簀の子(すのこ)
の上に広げ陰干しにする。竹べらで少し
ずつ延 ばして行くうちに、すっかり黒くなり
ピッチのように固くなる。

これを呑むと、 腹痛などぴたりと治まる
そうである。腹痛の経験のない私には、
それがどの程度の効き目かは分からない。

この「熊の胃」は、同じ重さの純金と同じ
値段だと言う から凄い。幸美さんは、
その金で連発銃を買った。この新式鉄砲を
手にして、 彼はしばしば山中に赴いたが、
熊を取ったという話はその後聞かない。

すき焼きパーティーの時の鎌倉さんの話は
面白かった。「俺は熊なんぞ少しも恐ろしく
ないが、幸美の鉄砲は実に恐ろしかった。
何しろ俺の耳のそばを、ヒュ ンヒュンと音を
立てながら幸美の弾が通り過ぎていくん
だからな」みんなはどっ と笑ったが、
考えてみれば笑い事ではない。

幸美さんは、もしかしたら熊ではな く人間を
取っていたかも知れないのだ。後で聞くと
幸美さんは、がたがた震えな がら発砲して
いたのだそうである。

その9(最終話)に続く…

熊の話(7)

撃ち取ったのは、鈴木幸美さんという農家の
おじさんである。本村には鎌倉さ んという
熊取りの名人もいた。熊を発見したとき、
名人の鎌倉さんは、恐れる色もなくずん
ずんと熊に近づいていった。鎌倉さんは
旅館の経営者でお金もあるから連発銃を
持っている。当時はたしか五連発くらいまで
許可されていたのではないかと思う。

クレー射撃に夢中になった頃、私もレミントンの
連発銃を持っていたが、今は連発は三発まで
しか許されていない。後は薬室の下から一発
ずつ押し入れなければならないのである。

鎌倉さんは性能の良い連発銃を持っているし、
二十頭近くの熊を取った経験が あるから度胸も
据わっている。彼はどんどん、どんどん熊に
近づいていった。熊は怒ったのであろう。うなり声
を発すると共に両手を挙げて立ち上がった。

平素 このような場合鎌倉さんは、その大きく
開けた熊の口の中に弾丸を撃ち込むという
のである。凄い。こうすると、顔に傷が付かず
熊の皮が高く売れるのである。 幸美さんは、
熊を目の前にしてがたがた震えた。結局彼は
熊に向かって三発発射 した。

幸美さんの持っている鉄砲は村田銃である。
引き金を引いたら、一発で薬室は空になる。
これで熊に挑むのは危険きわまりない。しかし
幸美さんは冬の農閑期など、シール(アザラシ
の皮)つきのスキーで山野を歩き回り、ウサギ
やイタ チなどを、狩りしていたから、目にも
とまらぬ早業で村田銃の弾を詰め替える。

それはもう、うっとりするほどの名人芸である。
だから彼は、熊に向かって三発も連射することが
できたのである。鎌倉さんは、その勇敢な接近も
空しく、幸美さんに先を越されてしまった。 熊が
捕まって、協力した人々でお祝いをすることに
なった。丸太を×印に組み、これに熊を立った姿で
縛り付け、その前で記念撮影するというのが当時の
習慣であった。

私は、この記念撮影に参加することはできなかったが、
後に熊の肉で 「すき焼き」をするときにお呼ばれする
ことになった。そのとき、晩秋の熊はま ことに旨いと
いうことを知ったのである。結局熊の足を一本頂いて
教員住宅に持 ち帰った。北海道の冬は寒いから
冷蔵庫など要らない。その熊の足は、春になる まで
私の栄養を支えた。かちかちに凍った熊の足を、
まさかりでたたき割り、その砕けを溶かして肉鍋に
するのだから豪快である。

その8に続く…

 

熊の話(6)

人食い熊ではないが、田畑を荒らし家畜を
殺すような熊は、いつまた人里に現れて害を
及ぼすか分からない。時には人食い熊に
変貌する危険もある。

山狩りを行い二百人ほどの「鉄砲撃ち」が
動員されたこと、機能十分ではない村田銃を
引 っ提げて、私もその一員に加わったことは
前号に書いた。

しかし山狩りとは生やさしい仕事ではない。
熊が住んでいると思われる山を遠巻きに
囲んで、頂上までその輪を小さくしていく
のであるが、頂上まで行っても、 仲間達と
一緒になるばかりで、熊は見つからないと
いうケースがほとんどであっ た。

降雪前の枯れ山とはいえ、自然林を進んで
いくことは並大抵の仕事ではない。 結局、
初日にして私はダウンする結果となった。
「学校もあるので」という逃げ口上で、私は
山狩り集団を脱落した。 熊は数里四方の
臭いを嗅ぎ取ると言われる。強い割に生来
臆病な獣である。こ れを山狩りして撃ち取る
というのは容易な業ではないのだ。十日以上
も山狩りが 続き、大地がうっすらと初雪に
覆われる頃、この暴れ熊は遂に御用となった。

その7に続く…

熊の話(5)

校長は「行ってくれる?小川先生」とやさしく
「懇請」する。「村田銃を持って行っても
良いから。」ところが、その村田銃が曲者
なのである。げき鉄が壊れているのか、
引き金 を引いたから弾丸が出るとは限ら
ない。何度か引き金を引いたり、銃床を
どすんどすんと 床に打ち付けたりして
いると、ドーンと弾丸が飛び出すという
代物なのだ。

それでも、ないよりはあった方が良い。
生徒を送っているうちは良いが、一人去り、
二人去って、最後は私一人になる。真っ暗
な晩秋の道をたった一人で帰ってくるのだ。
結局山狩りをして、この熊を退治しようという
ことになった。二百人くらいの鉄砲撃ちが
動員された。私も勢子として、この一員に
加わることになった。運が良ければ弾丸が
飛 び出す村田銃を担いで。

 

その6に続く…

ページ
TOP