スクリーンショット (41)本校では中学校3年間の「総合探究」のカリキュラムを作っています。中3の終わりに自ら探し出したテーマについて研究したプロセスをレポートとして冊子にまとめ、全員がお客さんを前にパワーポイントを用いてプレゼンすることになります。この経験は進路を考える際の大きな原動力になります。

その3年間のカリキュラムの1年目、中1では全員必修の「哲学対話」「図書館と情報」という授業があります。

読売中学受験サポートの特集記事をご覧いただければと思います。

(中学校副校長 堀内雅人)

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日々感じる中学生の姿、中学校での学びについて考える連載〖ほりしぇん副校長の教育談義〗(毎週土曜日配信)第16話は、「対話が生まれるとき」です。

対話とは、単なるおしゃべりとは違います。また、一人一人価値観や感じ方が違うのだからそれぞれでいいという空気が漂う場からは対話は生まれません。異なる意見を尊重するということは、その意見にしっかり耳を傾けるということであり、質問したり、異を唱えてはいけないということではないはずです。そのあたりの曖昧さが気になります。

(中学校副校長 堀内雅人)

 

16 対話が生まれるとき

先日、国語科の教職を目指すある大学生からこんな質問を受けました。「授業中質問し、指名した生徒が見当違いな答えを言った時、先生ならどのような対応をしますか?」 彼らは模擬授業を経験し、まずは教育実習という形で現場に入っていきます。準備した指導案には教師の発問と想定される生徒の答えが書き込まれます。思った通りの答えを生徒が言ってくれれば安心。ほめてあげられます。でも、間違ったり、想定外の答えが返ってきたらどうしよう、それが不安なわけです。生徒を傷つけてしまうのではないか。でも、きちんとそれを正さないと何を教えたのかが分からなくなってしまいます。でも、どう伝えればいいのだろう。悩みは深まるばかりです。

もちろん、発問の種類によって一概に言うことはできません。しかし、ここには授業を作ることにおけるとても大切なことが含まれているような気がします。実は、間違えを含めた多様な答えが出てきたときこそ、授業は活性化するのです。では、どうすれば多様な答えが返ってくるか。まずは授業中の間違えはけっして恥ずかしいことではないという教室空間ができているかということ。さらに、生徒が答えるたびに授業者は表情を変えないこと。生徒は知らず知らず先生の表情を読みとりながら発言してしまいます。大切なのは出てきた発言をしっかり聞き、その対立点をしっかり見抜く力を持つことです。けして顔色をうかがったり、空気を読むことではありません。また、間違えは間違えとしっかり生徒は理解しなければいけません。それこそが学びです。自分とは違う他の生徒の考えを聞いた段階で、誰から言われるでもなく自らの間違いに気づく生徒がいます。なぜ、勘違いしてしまったのか。それを述べることは本人だけではなく、クラスの全員にとって大きな学びになります。もし、明らかな対立点が出てきたらそれを検証するための深い学びがそこから始まります。それこそが授業の核心です。

先述の学生の問いに戻るなら、「しめたと思いながらも表情にあらわさず、たんたんと黒板にその意見を書き、ほかの考えは?と他の生徒に問いかける」となるでしょうか。難しいことですが。

 

私は国語の教員です。中1の授業を担当するとき、4月の最初の授業ではなぜ国語の勉強をするのかという話をするようにしています。一つの正解、説明の仕方があるわけではありません。様々な切り口の話し方があることでしょう。数年前の授業で私は、次の2つの文を使って、説明を試みました。

 

A (前の学校では)言葉はナイフだった。

B (今の学校では)言葉はバンソウコウだ。

 

「どのような意味だろう?」と問うわけです。重松清の『きみの友だち』「千羽鶴」の中にある文です。どのクラスでもすぐに手が挙がります。Aは、「言葉は人の心を傷つけるもの」「暴言を言われたのかなあ」「いじめられたんじゃないのかな」。Bは、「言葉は心の傷を治してくれる」「やさしい言葉は癒しだよね」。こちらが想定した通りの答えです。「ナイフとバンソウコウは比喩表現だよ」「AとBは、対比の関係になっている」。こんな発言が出てくればもう満点です…と思っていました。

その上で語ろうと思っていたのです。言葉がなければ人間の悩みはどれだけ少なくなることか、と同時にどれだけの喜びも消えてしまうことか。人間として生まれた以上、言葉なしに生きていくことはできない。ナイフは使い方ひとつで危険にも便利なものにもなる。ある意味、ナイフの発明は人間の進化にとって大きな意味を持っていただろう。同じように言葉の使い方を学ぶことは人生を豊かにすることに繋がっていく。

ところが、あるクラスでそんな話をしようと思ったとき、一人の男子生徒の小さなつぶやきが聞こえてきたのです。「バンソウコウで傷が治るわけじゃないよ!」。予期せぬ発言でした。こちらをまっすぐ見ず、少し投げやりな言い方が気になりました。「なにあいつまた屁理屈言ってるの!」といった周りの空気も感じました。

しかし、ハッとしました。「バンソウコウでは傷は……治らない……?」口に出し、しばらくその意味を考えていました。沈黙が生まれました。教師が悩むと、生徒の目は一気に輝き始めます。生徒たちも一緒に考え出したのです。するとこんな発言が飛び出してきました。「たしかにバンソウコウで傷が治るわけじゃないよね」「傷を守っているだけ?」「傷を見えないように隠しているんじゃないの?」私があれやこれや思いを巡らしていた1分ほどの間にでてきた生徒の発言です。すると、さっきまで斜に構えていた男子生徒が姿勢を正したのです。彼もまた他の生徒の意見に耳を傾け始めました。「傷を治すのは、バンソウコウなんかじゃなくて、その人自身の身体でしょ!」「自然治癒力ってやつ?」「その人が自分で治そうとしなければ治らないんだよ」。

この対話は、まさに重松の『千羽鶴』のテーマに繋がります。その作品を読んでいるわけでもないのに、中1のそれも4月の最初の授業でそれが行われたということは驚きでした。と同時に、作品の一部を自分の都合のいいように引用して、いかにももっともらしいことを言おうとしていた自分を恥じることになりました。ありきたりの準備されたきれいごとの授業にどこか違和感を持っていた生徒。しかし、その違和感を言葉でうまく説明することはできない。でも、人一倍豊かな感性を持っている。今まで自分の本当の部分をわかってくれなかった大人や先生に対するちょっとした不信。わかってほしいくせに他の生徒のように素直に言えないイライラ。こんな生徒像が浮かんできました。中学校に入学して間もないころ、どのクラスにも一人か二人、こんな生徒がいます。扱いは難しいですが魅力的な生徒です。こういう生徒がクラスから浮かずに、他の生徒とつながっていくことができたとき、そのクラスは集団としても成長していきます。

数年前のこの一時間の授業を、その教室の空気を、いまだに記憶しているということはそれだけ心打たれた経験だったということではあります。しかし、裏を返せばそうたびたび感じることはできなかったということでもあります。たぶん、気がつかないまませっかくのチャンスを何度も何度も失っていたのかもしれません。だからこそ、そういう授業場を作ることの必要性を意識したいのです。

国際交流

毎年10月の下旬に行われる高等学校の『インターナショナルウィーク』。姉妹校のタイのホアヒンにあるウイタヤライ学園とドイツのメンデルスゾーン・オーバーシューレ高等学校の短期留学生がこの時期に合わせて大勢やってきます。コロナ禍にある昨年今年はそれが叶いませんがでしたが、一方でオンラインによる交流にチャレンジしたりもしています。

例年高等学校はこの1週間、さまざまな交流イベントが行われますが、中学校も国際交流の日と称し、異文化交流を楽しみます。詳しくはこちらの取材記事『インターナショナルウィーク~自分の殻を破るきっかけが見つかる』(ココロコミュEAST)をご覧ください。

 

 

 

 

 

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日々感じる中学生の姿、中学校での学びについて考える連載〖ほりしぇん副校長の教育談義〗(毎週土曜日配信)第15話は、「常識を疑うことの大切さ」です。

常識を知ることは大切です。しかし、なぜ?に答えられない常識は思考停止の産物かもしれません。普遍的な常識がある一方、多くの常識は時代とともに変化していきます。文化によっても常識は変わります。考え続けることが大切です。薄っぺらな常識論を振りかざす大人を子どもたちは鋭く見抜きます。ますますグローバル化するこれからの時代、常識を疑うことの大切さを考えてみたいと思います。

(中学校副校長 堀内雅人)

 

15 常識を疑うことの大切さ

 

実は中学生というのは、きわめて道徳的な判断をする時期なのだと感じます。小学生はもっとかもしれません。純粋な彼らは、そうでない現実との間で大人不振に陥ったり、自分の殻に閉じこもってしまったりすることがあるように思います。私は道徳的な正論は子どものうちに身につけておかなければならないと思っています。と同時に、「果たして本当にそうなの?」という問いをたて、思考を深める訓練が大切だと思うのです。

よく「自分のクラスでは、特活の時間に生徒たち自身が話し合って必要なことは決めることができている」といった担任の先生の意見を聞くことがあります。確かにそのクラスはその通りなのかもしれません。でも、全てがそうとは思えません。むしろ私はそんな言い方をする先生に危惧を覚えます。一人一人が自分の意見を言いつつ、一つの方向に収束し、クラスの決め事ができていくというのは極めて高度なことなのだと思うからです。プロの政治家が集まる国会の様子を見ていても分かります。

特活の時間に、例えばクラスのもめ事を話し合おうとするとき、多くのクラスではまさに多数派の正論が幅を利かせてしまうのではないかと思うのです。そのときに少数意見が正当に取り上げられるだろうか。逆にそういう声が出ないような関係性ができあがったクラスが落ち着いたクラスであると表面的に評価されたりする。うがった見方にすぎるでしょうか。

 

週1回の国語の授業で、ある年私は1年間を通し、「名言を探せ!」と称し、私が探した名言を紹介したり、逆に生徒から紹介してもらったりということを行いました。次の3つの文の(  )の部分に入る言葉を探してみてください。

 

A 『正義の反対は悪なんかじゃないんだ。正義の反対は(  )なんだよ。』

<『野原ひろしの名言集』>

 

B 『正論は正しい。だが、正論を(  )にする奴は正しくない。』

<『図書館戦争』有川浩>

 

次は、生徒が持ってきた名言です。

C 『「せいぎ せいぎ せいぎ せいぎ……」と歌っていたら、その中にたくさんの(  )があったのです。』

<SEKAINOOWARI 深瀬 慧>

 

(  )には何が入るでしょうか。授業の中では原作を超える名文を完成してみようと声がけするのですが、いろんな意見が出てきます。そして中1のどのクラスでも、原作の言葉とほぼ同じ意味の言葉を見つける生徒が出てきます。Aは(また別の正義)、Bは(武器)、Cは(犠牲)。正論を知ったうえで、その先にあるものを思考しようとするとき、より深いところに行けるように思うのです。

世間の常識を知ることは大切です。しかし、「正義」という言葉や正論は、思考停止をまねくのです。それは正論として掬い取れない大切な真実に蓋をかぶせます。一見対立する両者の意見からより高い次元の議論へと発展させるきっかけを奪います。表面的な正論や常識は多数が支持するか否かで揺れ動きます。思考することの自由からどんどん離れていきます。

まずは疑問を持つことです。分からないことは分からないと言えること。おかしいと思ったら、なぜそう思うのか立ち止まって考えてみること。そういう人たちがこれからの時代を切り拓いていくのだと思います。

 

イラスト1

イラスト2

中学生がイラストで描いてくれた『明星学園中学校』。明星学園の雰囲気を我々教員よりもずっと印象的に表現してくれています。

注:コロナ禍の現在、お弁当は各教室で担任による黙食指導を徹底しています。(笑)

(中学校副校長 堀内)

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今年度の中学校運動会が台風一過の10月3日(日)、快晴の下、無事実施されました。昨年中止にせざるを得なかった小中合同運動会、どうすれば実施できるかを考え、小中分離開催、無観客、マスクの着用、練習期間の短縮、3学年合同の応援合戦を9年(中3)のみにするなど、さまざまな制約を作ることになりましたが、見事生徒たちは期待に応えてくれました。
今年の運動会のテーマは『革命』。コロナ禍でもできる運動会を創り出そうという実行委員メンバーたちの意気込みを感じます。団長・応援団長を中心に各色、趣向を凝らした応援と歓声の響くすがすがしい運動会となりました。

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Tシャツデザイン賞は青色、応援合戦は黄色、2021年度総合優勝は黄色でした。順位はついても互いに健闘をたたえている姿が印象的でした。

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日々感じる中学生の姿、中学校での学びについて考える連載〖ほりしぇん副校長の教育談義〗第14話は、「二つの眼鏡を持つことの大切さ」です。

国語の教員として「ことば」の教育をするとき、肝に銘じておかなければいけないことだと感じています。

(中学校副校長 堀内雅人)

 

14 二つの眼鏡を持つことの大切さ

 

数年前、詩人のアーサー・ビナードさんが本校の公開研究会の全体会の講演者として来てくださいました。いちょうのホールには座りきれずに、壁際にずらっと人が並ぶほどの大盛況となりました。「ことばはレンズである。英語のレンズで見ていたとき見えなかったものが、漢字を学び、日本語を話すようになった時に見えてきた。新しい発見があった。・・・」ご自身の体験をユーモアたっぷりに話し始めてくれました。「言葉を教えるというのは本当に大切。技術を教えることも大切。でも、そのことによって見えなくなるものがある。世界を狭めてしまうことがある。本当に大事なことはことばのむこうにあるものに、思いをはせること。・・・」広島や長崎の問題がアメリカの教科書ではどう教えられているかという話がありました。自由で正義の国アメリカが、原子爆弾によって戦争を終わらせ、両国の戦死者をそれ以上増やさなかったという構図。それがあたりまえのこととして信じられていたこと。

アーサーさんは日本語を学び、日本語のレンズでそれをながめ、原爆の落とされる数か月前の東京大空襲のことを知ったとき、さまざまな疑問がわいてきたと言います。それを一つ一つ調べていくうちに、気づいたそこに隠れていた欺瞞。「なぜ東京の中枢ではなく、一般庶民の住んでいる下町に、それもわざわざ逃げ場のないように焼夷弾を落としたのか?」「なぜわざわざ戦争を長引かせるようなことをしたのか?」地図を見ることの大切さ、その場所に足を運ぶことの大切さを語ります。広島の人はだれ一人『キノコ雲』などとは言わないそうです。「私が日本に来た当時、出会った広島の被爆者はみんな『ピカ』というんです。『ピカドン』という人もいました。東京の人はそんな言葉を使ってはいなかった。それは原爆にどこであったかの違いなんです。」爆心地付近にいた人。そこから数キロ離れたところにいる人。そんな地獄の中にいる人が『キノコ雲』など見ることができないこと。きれいな『キノコ雲』を見ることができるのは、地上で何が起きているか想像することすらできない「エノラ・ゲイ」の乗組員の眼から見たことばであること。「どのことばを使うかによって、無意識のうちに立ち位置が決まってしまうんです。」「ベトナム戦争の時、それまで使われていた『焼夷弾』ということばが日本の新聞から消え去り、『ナパーム弾』ということばに取って代わったのはなぜか?」

ことばの大切さと、怖さ。それを自覚した上でのことばの教育。時に違うレンズでものを見ることの重要性。いったん自らのレンズを外してみることの勇気。これは国語教育のみならず、英語、社会科、全ての教科に共通する重要な問題意識です。その日の社会科の分科会でも、話題になったようです。「鎖国と開国」。あたりまえのように使われている歴史用語。この言葉の使い方に疑問を投げかけた中3生がいたようです。それを社会科の教師はどうさばくのか? 研究会もまた同じです。だれもが自分のレンズを持っています。研究するということは自分のレンズを確固としたものにすることでもあります。それをいったんはずしたとき、何が見えてくるのだろう? 別のレンズに掛け替えたとき、どんな疑問がわきあがってくるだろう? それができてこそ自分の世界を広げてくれる意味のある研究会になるのではないかと思います。だれもが自分のレンズには無自覚です。だからこそ、教員全体でアーサー・ビナードさんのこの日の講演を聴けたことは大きな喜びでした。

 

そんなことを考えているとき、2014年12月2日、朝日新聞の夕刊文化面に次のような記事が載りました。タイトルには『桃太郎と教科書 知的な反抗精神養って 池澤夏樹』とあります。それ以前に、前衆議院議員の義家弘介さんが、筑摩の高校教科書「国語Ⅰ」に収録されている池澤さんのエッセー『狩猟民の心』について、<これは子供たちに供するにふさわしくない>と発言したことへの、表向き遠慮がちな、でも実は痛烈な反論という形の文章でした。まずは、義家さんが指摘する池澤さんの文章を紹介します。

《日本人の(略)心性を最もよく表現している物語は何か。ぼくはそれは「桃太郎」だと思う。あれは一方的な征伐の話だ。鬼は最初から鬼と規定されているのであって、桃太郎一族に害をなしたわけではない。しかも桃太郎と一緒に行くのは友人でも同志でもなくて、黍団子というあやしげな給料で雇われた傭兵なのだ。更に言えば、彼らはすべて士官である桃太郎よりも人間以下の兵卒として(略)、動物という限定的な身分を与えられている。彼らは鬼ヶ島を攻撃し、征服し、略奪して戻る。この話には侵略戦争の思想以外のものは何もない》

ここからは義家さんの意見です。

《わが国では思想及び良心の自由、表現の自由が保障されている。作者が作家としてどのような表現で思想を開陳しようとも、法に触れない限り自由である。しかし、おそらく伝統的な日本人なら誰もが唖然とするであろう一方的な思想と見解が、公教育で用いる教科書の検定を堂々と通過して、子供たちの元に届けられた、という事実に私は驚きを隠せない。 / 例えばこの単元を用いて、偏向した考えを持つ教師が「日本人の心性とは、どのようなものであると筆者は指摘しているか、漢字4字で書きなさい」などという問題を作成したら一体どうなるか。生徒たちは「侵略戦争」と答えるしかないだろう。》

 

皆さんはどのような立場をとられるでしょうか。日本がどういう国かという問題ではありません。大切なのは、視点を変えた時、一つの現実が全く異なる様相として現れるという驚きです。文学教育の最も大切なことは、この「視点」「語り」の問題にあると私は考えています。思想を教えることではありません。感動を経験させることが第一でもありません。文学は人の心を揺さぶります。感情移入を経験させることができ、感動をさせることも可能です。ある方向に生徒を導いてしまう危険性を併せ持っています。だからこそ、文学教育では、一方で批評する力を身につけさせることが求められます。まさに「考える自由」を授業場で教師も生徒も持っていなければなりません。

池澤さんは次のようにこの文章をしめくくっています。

《教育というのは生徒の頭に官製の思想を注入することではない。(略)一つのテーマに対していかに異論を立てるか、知的な反抗精神を養うのが教育の本義だ。ぼくの桃太郎論を読んだ生徒が反発してくれればくれるだけ、ぼくは嬉しい。》

 

この文章(教材)で、生徒に何を考えさせるか。問われるのは授業者の側です。「探究」的な文学の授業は、緻密な教材研究、授業研究なしには生まれません。数年前、評判になった広告があります。泣いている鬼の子の絵の上に「ボクのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました」という子どもの字で書かれたコピーがありました。痛烈な批評です。

美術

明星学園は創立以来、芸術教育を大切にしてきました。単なる技術だけではなく「ものを見る目」「世界を切り取る視点」「柔軟な思考力」を身につけます。これからの新しい時代、ますます必要になってくる力です。ここでは中学校3年間の授業カリキュラムを生徒の作品とともにご紹介します。

「枠の中の自由表現~明星学園の美術授業」(ココロコミュEAST)

高等学校の3年間はさらに専門的な芸術教育を選択できるようになっています。毎年、東京藝大をはじめ武蔵野美・多摩美・造形大等、多くの美大進学者を輩出しています。

(中学校副校長 堀内)

 

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日々感じる中学生の姿、中学校での学びについて考える連載〖ほりしぇん副校長の教育談義〗第13話は、「大人になるためのステップ―教室の中のトラブルと芥川『藪の中』」です。

文学教材の研究をしていると作品世界と目の前の生徒のいる現実世界が重なってくることがしばしばあります。中3の国語の授業で芥川龍之介の『藪の中』を扱ったときのことでした。作品世界と現実世界を行きつ戻りつしながら思考し、感じたことをご紹介します。(中学校副校長 堀内)

 

13 大人になるためのステップ―教室の中のトラブルと芥川『藪の中』

 

「みんなが自分のことを馬鹿にしている。みんなからひどいことを言われた。」こんな訴えは特に中学校に入学したての生徒を担当するとき、しばしば経験することです。当然被害を訴えている生徒から具体的に話を聞きます。「相手はだれ?」「何人?」「なんて言われた?」――「〇〇〇とか△△△って言われた。」「みんなから。」「たくさん。」「こわかった。」「みんなにやにやしていた。」「はっきりおぼえていない。」「そう言われた気がした。たぶん…。」――そう言いながら興奮はおさまりません。

加害者と言われた生徒一人一人から話を聞きます。「何て言った?」「だれが言った?」「どうしてそんなこと言った?――「言ったのは自分だけ。あとの3人は一緒にいただけで、何も言っていない。」「教室には他にもたくさんいた。ただふざけていただけ。」「いつも一緒に遊んでいる。相手は笑っていたから、そこまで嫌がっているとは思ってもいなかった。」「あいつだってそういう言葉を言うことがある。たしかに〇〇〇という言葉は使ったが、△△△とは言っていない。」――自分が悪口と指摘される言葉を使ったことは認めつつも、そこまで言われるほどの悪意を持っていたわけではないということを一生懸命言おうとします。むしろ事実と違うことまで先生に言っている相手の生徒に対し、ある種の恨みの感情が生まれつつあることは想像に難くありません。

「でも〇〇〇という悪口を言ったんだな。」――「言った。」――『〇〇〇』という人を傷つける言葉を使ったことに対し、被害者の前で叱責し、加害者に謝罪の言葉を言わせます。とりあえず、被害者の生徒に安心感を与えようとします。ただ、それだけのことです。教育の場では問題は何ら解決されていません。被害者の生徒に本当の意味での安心など与えられてはいません。当事者同士の関係は何も改善されません。むしろ悪化させる可能性の方が大きいでしょう。その結果、生徒は先生に相談することすらなくなっていきます。

 

中3の教材として扱おうと、芥川龍之介の『藪の中』を教材研究しているとき、なぜかそんな場面が浮かんできました。先の例で言えば、両者の言っていることにくいちがいが起きているわけです。にもかかわらず、両者が了解した一致点のみ取り出すことで加害・被害を確定しました。裁く側に立てば、とりあえず一件落着です。全貌が明らかになっていないという批判に対しては、そもそも何が全貌なのかということは証明できません。裁く側の切り取り方しだいなのです。少なくとも権力を持っている側は、自分の切り取った断面において整合性をつけようとします。あいまいさを残すことには耐えられません。いや、形式的な論理性に必要なパズルのピース(部分的な証言や客観的と思いこんだ先入観)をそろえることで、一つの因果関係をもったわかりやすい物語を作り出し、一方その物語にはめこむことのできないピースは無意識のうちに捨象されます。

 

先の例に戻るなら、叱責と謝罪といった形式的なことだけでは終わるはずもありません。加害者側の被害者側に対する恨みの感情。さらに教員に対する不信感の芽生え。――自分のことをわかってくれない。教師の権力で無難におさめているだけだ。生徒の本当の様子など気がつかない。あるいは気づこうともしない。そのくせ分かった気になっている教師。

では、すべてを明らかにすればいいのでしょうか。しかし、この場合訴えている生徒の言い分と、訴えられている生徒の言い分を一つ一つ検証し、どちらが正しいか明らかにしていっても何の解決にも至りません。訴えてきた生徒を追い込んでしまうばかりです。記憶はあいまいです。当事者だからといってすべて見ているわけではありません。今述べた意味での事実であるなら、そこには大きな意味はありません。

何人もで彼を囲んだら、彼はどう思うだろう? “こわい”と感じているとき、人間は正確にものが見えなくなってしまう。彼はウソをついているのではない。そう感じるほどこわかったのだ。笑顔にしても、それは精いっぱいのものではなかったか。表面と内面は必ずしも一致しない。A君の気持ちを想像できるようになってほしい。――そんな言葉を加害者と言われた生徒にはかけてあげたいと思うのです。また、被害者の生徒に対しては嫌な時にはその場で嫌だと言えるようになってほしいし、パニックにならず、冷静に状況判断できるようになってほしいと願います。もちろんそれには時間がかかります。同時にA君が教室の中でどのような関係性の中に居場所を持っているかということに思いをはせなければならないのは言うまでもありません。

 

ここまで「加害者」「被害者」という言葉を使ってきました。もちろんそれはある一場面を切り取った時の関係性です。第一段階の指導においては、これはおろそかにしてはいけません。そのことなしに対話は始まりません。先生に訴えるということは大切なことなのです。問題なのは、この第一段階の表面的な指導のみで一件落着してしまおうとすることです。訴えた生徒は「先生にチクった!」と教室の中で責められる可能性だってあります。それを見ている生徒は、自分が困ったとき、先生のところへ行って相談するという選択をするでしょうか。

人間は他者から理解されることで成長する生き物です。誤った行為については自分の罪を認めることができても、自分を否定されることには耐えられません。自分にだって言い分はあるでしょう。学校は教育の場です。どちらの側の生徒に対しても、先入観を持たずに話を聞いてあげることからしか何も始まりません。生徒に寄り添い、聞いてあげる先生がいるとき、生徒は多くのことを語り始めます。自分を防衛することしか考えていなかった生徒の心がしだいに柔らかくなっていくのを感じます。もちろん、自分勝手なものの見かたや責任を他者に向けようとする言動は目立ちます。こちらも我慢のしどころです。強がっていた生徒が、実は大きな悩みを抱えていたことを知る場にもなります。傷ついている生徒ほど、無自覚のうちに他者を傷つけている事実を知ります。自分がいっぱいいっぱいの時、他者に優しくできる余裕はありません。「嫌なことには嫌と言えるようになってほしい。自分で言えないときには先生を頼ってくれていい。でも、先生は君のかわりに言ってあげたりしないよ。話をする場を設定してあげる。自分の言葉できちんと相手に伝える。先生はそれを見ていてあげる。そのかわり、自分がだれかを結果的に傷つけてしまったときは、勇気をもって謝らなければいけない。」自分のことを理解してもらえて初めて他者の心を想うことができるようになるのだと思います。

心からでてくる「ごめんね!」は魔法の言葉です。形だけの「ごめんね」とは全くの別物です。相手の心さえ柔らかくします。「自分の方だって……ごめん!」 「ごめんね」という言葉は敗者の言葉ではありません。強い心がないと言えない言葉です。中学生にとっては、かんたんには言えない言葉でもあります。

学校の中で起こる小さなトラブル(当人にとっては極めて重大なことですが)は、生徒間や生徒と教師の関係を深めるきっかけともなります。そこでは「加害者」も「被害者」もありません。人間はだれもが不完全な存在です。相手の悪いことを挙げればきりがありません。「あのとき自分はどう行動すればよかったか?」トラブルが起きるとき、どちらにもある程度の非があるのです。相手が悪いというだけでなく、自分がどうすればよかったかということに目が向いた時、その生徒は大きく成長します。世界が全く違ったものに見えてくるでしょう。「自分を理解してくれている人なんていない。どうせ自分なんか…」と思っていたのに、この世界それほど捨てたものではないと気づくこともできるでしょう。そうなれば、素直に「ありがとう」という言葉もでてきます。このような経験は大人になるための大切なステップです。

「ありがとう」と「ごめんね」、この二つの言葉は人間関係をうまく作る上で本当に大切な言葉であると改めて思います。

 

中3での芥川『藪の中』の授業は、大変スリリングな授業となりました。活発な読みが生徒から生まれてきました。ただ、最後に何が正しいのか見えなくなった時、ある混乱が生徒に生まれたことも確かです。でも、この揺れこそがこの作品が語ろうとしていたことでもあると思うのです。

人が何かを見るという行為、人がだれかに語るという行為には、必ずフィルターが介在します。その時の心の状態、相手や対象物と自分との関係。見たくないものには目をつぶるでしょうし、語りたくないことは語らないでしょう。自分の思いたいように整合性をつけてしまうことも人間のなせる業です。無意識のうちに自分を正当化し、自分の行為を美化しようともします。本当の意味での客観性などはありません。しかし、それをウソとは言えません。大切なのは、一つ一つの社会的な事実の裏にある、心の真実なのではないでしょうか。先の教室での例で言うならA君の“こわいんだ”という心の叫びに尽きます。ここをくみ取らずにいかなる指導もないでしょう。

ましてや、『藪の中』における登場人物、多襄丸・真砂・武弘は極限状況にいます。3人の語りが事実関係において食い違っていたとしても不思議ではありません。ただ、多襄丸については権力者である検非違使の前での語りであり、おのずと他の二人の語りとは異なる側面を持ちます。もちろん、武弘を刺したのは一人の特定の人物でしょう。しかし、3人のうちだれが嘘をつき、だれが事実を語っているかということに眼目はありません。3人はそれぞれ何を見、何を伝えたかったのか。そして彼らがそのように対象を認識し、語らずにはおれない心のありようとはいかなるものか。罪から逃れたいという心情なら理解しやすいのですが、3人が3人とも自分が刺したのだと言います。自分が刺したということにしなければ伝えられない心の真実とは何なのでしょうか。

生徒はもちろん、我々をとりまく世界の現実が『藪の中』の世界と時代や背景を超えてリンクしているのを感じます。事実と真理、世界の切り取り方、自己と他者、語るということ。あらためて、学校教育における文学教育の大切さを思います。

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一人一人の『卒業論文』

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卒業研究発表会『バッタの生息環境による体色の違いについて』

卒業研究発表会『なぜペットボトル入りのビールは見かけないのか?』

卒業研究発表会『なぜペットボトル入りのビールは見かけないのか?』

明星学園中学校では1996年度より中3の1年間を使い『卒業研究』を実践しています。今年で26年目を迎えますが、全員が論文を書き、全員がお客さんを前にパワーポイントを用いてプレゼンをする形が定着しています。最も大切なことはテーマを自分自身で見つけること。

読売中学受験サポートに取材していただいた記事『中3の卒業研究 戸惑うほど自由なテーマ選び』をご一読ください。

(中学校副校長 堀内)

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