雄鳥のごとく(5)

 

相手のおじさんは、よほど怖かったのか、
押入の中に隠れた。

隠れる瞬間を私は確かに見た。

奥さんが、「主人は今おりません」としきりに
謝るのだが、まさかりを下げている にしては
冷静な父は、奥さんと争いに来たのでは
ないから、ご主人を出しなさいと「説得」する。

「いきなり殺したりはしないから」と言うので
ある。

恐怖に震えているのか、押入の戸がかたかた2018
鳴った。

それに気づいて父は、私を見て微笑んだ。

それはもう、かっこいいものであった。

結末は平凡な相手方の陳謝で終わった
らしいのだが、私は菅野さんを誘ったり
しない父の瞬間的決断力に男を見たと
思った。

雄鳥ばかりではない、人間の世界にも、
家族と権益を守るためには命も惜しま
ない男が、 少し前には存在したのである。

<完>

雄鳥のごとく(4)

 

意外や意外、おじさんの口から出たのは、

「俺ひとりではどうすることもできない。
小川さんが帰って、相談してからにしよう。」

という言葉であった。

女ふたりの失望の色は、 今も私の記憶に
鮮明である。

私は「頼りにならない男だ」と情けなくなった。

間もなく、自転車を押しながら父が現場から
帰ってきた。

大工だから、後ろには道具箱が積んである。

われ鐘のような声で、「誰だ、こんな所に縄を
張った奴は」と父は叫んだ。 叫ぶなり彼は、
地下足袋の足でポンポンと縄を蹴とばした。

縄はぷつんぷつんと切れてい った。

女二人からあらましを聞いた父は、菅野さんを
誘いもせず、道具箱から、ピカピカに研ぎ澄ま
されたまさかりを取り出した。

それを右手に提げて、「義男ついてこい」と
言うな り彼は、お向かいの「犯人の家」に
向かった。

父を絶対に信頼していた私は、大股にその後に
続いた。

雄鳥のごとく(3)

 

雄鳥のような男が身近にいた。

私の父である。

小学校一年生のある日、私が
下校すると、家の周りに荒縄が
張り巡らされている。

二戸建ての借家だったのだが、
中に入ると、姉と隣のおばさんが
抱き合って泣いている。

母の いない私にとって、姉は母
代わりであった。

近所の、たちの良くないおじさんが、
家主との権利関係のもつれから、
店子である我々二軒の家の周りに
縄を張り、「出入り禁止」を申しつけた
のである。

幼いとは言え、私は長男意識が
強かったから、責任感がぐっと
こみ上げてきた。

だが幼児の身にはどうすることも
できない。

隣のおじさん、菅野さんと言ったが、
が帰ってきた。おじさんは鍛冶屋で
ある。

腕は足ほどにも太い。おばさんと
姉は、菅野さんのおじさんに取り
すがり、泣きながら訴えた。

息詰まる一瞬であった。その場の
雰囲気に、ある種のなまめかしさを
感じたのだから、私 もませていたの
かも知れない。

 

その4につづく…

雄鳥のごとく(2)

 

余談であるが、雄鳥がこのように
命がけの戦いを展開しているとき、
雌鳥はどのように しているので
あろうか。

実は雌鳥たちは安全な床下などに
隠れ、土をほじくり返して、みみず
などを漁っているのである。

雄鳥を信頼していると言えば、

それもそうだが、考えてみれば
男とは悲しい生き物である。

寅さんに待つまでもなく

「男は辛い」

のである。

その3につづく…

雄鳥のごとく(1)

狭山ヶ丘高等学校長 小川義男

鷹を保護するなどとやかましい昨今であるが、
北海道の開拓当時、鷹は大変な害鳥であった。

人間の隙をねらって雌鳥や雛を襲い、巣に
運んで食うのである。

鷹は高空を旋回しながらチャンスを狙う。

それに気づくと雄鳥は、必ず雌鳥を縁の下などに
隠し、自らは切り株の上に上がって、けたたましく
叫び声を上げる。

鷹の注意を自分に集めようとするのである。

当然鷹は襲ってくるが、「一族」を守るため、
毛を逆立てて 雄鳥は捨て身の抵抗を試みる。

そのけたたましい叫び声に、人間が駆けつけて
くるのだが、時には力つきて雄鳥が犠牲になる
こともある。

この情景を目の当たりにして私は、

「男はこのようでなければならない」

と感じつつ大人になった。

 

その2につづく…

朝鮮人の思いで2(5)

 

室員たちは困った。そのうち女性の室員が
激しい性格で、それは責任転嫁ではないか
と激しく詰め寄った。

責任転嫁と聞いて、怒り心頭に発した守衛は
「責任転嫁とは何事だ」と逆に詰め寄った。

その勢いに押され、さすがの彼女もたじたじと
なった。

「そうだ責任転嫁だ。これが責任転嫁でなくて、
どこに責任転嫁があるか。」

私は反撃に出た。

「法学研究室」の室員が 「僕は守衛さんの気持ちも
分かります。僕たちは一方的な考えにこだわっては
駄目だ」と言い出した。

私が頭に来るのは、このような時であ る。

私は直ちに攻撃をこの室員に集中した。

「君は一体どっち側なんだ。守衛の側なら、 君は
そっち側に立ち給え」と彼を守衛側に押しやった。

件の女性も、これに勢いを得て 「そうよ。それなら
あなたはお帰りになれば、いいんだわ」と言った。

私も「そうだ、 帰ればいいんだ」と追い打ちを掛けた。

さらに私は守衛に 「我々を入れるなと指示した人の
名前を言いなさい。そのあたり を曖昧にすると、学園
紛争の新しい芽になりますよ。我々が立ち上がったら、
三派全学連の動きなどとは桁が違うよ」と凄んだ。

結局怯えて守衛は我々を通したが、そのときにも私は、
少年時代に見た、あの朝鮮人たちの 「戦いの連帯性」に
思いを馳せていたのである。

すでに私も高齢の身ではあるが、葛藤場面に際しては、
いつも私は朝鮮人の戦い方を想起することにしている。

それから私の葛藤の師は、もうひとつある。

それは雄鳥である。これについてはいつか触れよう。

老人にとって最大の危険は丸くなる ことだと思う。分別
くさい年齢であるだけに分別は敵である。

朝鮮人のごとく、雄鳥のごとく、激しく戦い続けなければ
ならないのが老人だと私は思うのである。

<完>

 

 

朝鮮人の思いで2(4)
私は十八歳から十年間くらい、反体制的
思想を抱くことになった。それも可成り著名
なリーダーとしてである。

その思想的影響も、思えばあのとき、その
下地が形成されていたのかも知れない。

二十七歳の時、自分なりの研究の末、
このような傾向と絶縁した が、喧嘩が
朝鮮人のようでなければならないとの
考えは今も変わらない。

三十五歳の頃、私は明治大学法学部
二部の学生であった。

勤務しながら夜通っていたのである。
「一号館」の五階に法律の研究室が
五つあり、私はそのひとつ「法科特別
研究室」の一員であった。

日曜の朝、五時半に、新入室員は
掃除をしなければならない。

日曜が私の当番であった。 ところが、
守衛が我々を玄関から入れない。

五つのうち二つの研究室の室員は
もう来ていて、全部で五人、中へ
入れてくれと頼むのだが、守衛は
どうしても承知しない。

事情を聞くと 「昨夜五階の水道を
開け放した者がいる。

階段を滝のように水が朝まで流れ
続けた。

その犯人が分かるまでは何人も
通さないと言うのである。

 

その5につづく…

朝鮮人の思いで2(3)

 

相手は今は「外国人」である。駅員も警察官も
たじたじとなった。

朝鮮人に正当性は全くない。しかし彼らは、
朝鮮人としての一体感から、炎のような激しさで
抵抗した。

私はこれを見ていて 「なるほど、喧嘩はこうで
なくてはならぬ。 この場合、君が 『間違っている
などと、したり顔でいたりしてはな 』 らないのだ。

一度戦いが始まった以上、 良い悪いの問題で
はない。仲間を守ることこそ何物にも優先する、
私はそう感じた。

先輩たちは、朝鮮人がいなくなってから、口々に
朝鮮人を批判したが、私はそうは思わなかった。

むしろ彼らの、筋も道理も離れた仲間意識に、
ある種の精神的昂揚を感じ、 「喧嘩は朝鮮人の
ようにやらなくてはならぬ」と胸中深く思い固めた
のである。

 

その4につづく…

朝鮮人の思いで2(2)

 

農家は生産した米を全部「供出」しなければ
ならない決まりになっていた。

しかし政府の買い上げ価格は極めて安い
から、全部供出したのでは生きていけない。

そこで、こ っそり米を隠すのである。どのように
隠したのかは分からないが、それぞれの家に、
絶妙な隠し方があったらしい。

その米をこっそり高値で売りに出す。供出価格
の十倍にはなったのでないだろうか。 これが
「闇米」と言われる物である。それをこっそり
買って運ぶ人を闇屋と言った。

警察に捕まれば没収されるが、うまく隠しきって
運び切ると莫大なもうけになる。

このよ うにして運ぶ人を闇屋とか「担ぎ屋」と言った。

高齢の女性が、米一俵を担ぐなどと言うのはざらで
あった。

私たちの通学列車にも、三分の一くらいはこの
「担ぎ屋」が乗っていた。やくざな商売である。

彼らにとっては、時折「手入れ」に入る警官が
天敵であった。食糧事情の悪さは、敗戦から
十年は続いた。

ここに語るのは、敗戦から三年後の話である。
日本人の闇屋とは別に、朝鮮人の「同業者」が
いた。同じ闇屋だが、朝鮮人には、独立したと
いう誇りがある。これまで「苛められた」という
恨みもあったろう。

だから同じ闇屋でも、ぐっと戦闘的なのである。

 

その3につづく…

朝鮮人の思いで2(1)

校長 小川義男

八月十五日は、我が国が英米との戦争に
敗れた日である。

これに先立ちロシアは、日 ソ不可侵条約を
一方的に破って八月八日に戦闘行為を
開始した。

私は中学一年生だったが、敗戦の日の
悔しさは今も忘れない。

 

食糧事情がもの凄く悪かった。米は需要に
追いつかないので配給制であった。全員が
公平に食べられるようにと、国から出る切符を
持って米屋に買いに行くのである。

ひと り二合五勺(375g)が割り当量であった。
月に 11.25キログラムだから、随分多いように
思う人もいるかも知れない。

しかし当時は副食が極めて少なく、飯が食卓の
栄養源の主力だったのである。野菜に漬け物、
それにみそ汁とご飯というのが、ごく普通の
食事であった。

だから月 11,25 キロではとても足りない。

それに配給は建前で、米が届かないことも
あった。遅配、欠配が珍しくはなかったので
ある。

 

その2につづく…

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