親孝行のできる人に!

 

本校は親孝行を教育の重大な目標に
しております。親の指導に素直に従う
姿勢があって初めて 人は、素直に、
その指導を仰ぎ成長していくことが
できます。

親を大切にできる人間であって初めて、
世の恵まれない人々に奉仕することが
できます。 愛することは愛されることに
数倍する喜びを人に与えます。

狭山ヶ丘高等学校付属中学校校長メッセージ

親を大切にし友人を大切にして、
誰からも好かれ信頼される人間に
育って下さい。

 

思想豊かな人に!

この頃、新聞を取らない家庭が少なくないと聞きます。
我が国に宅配の新聞が存在することは、若しかすると
世界でただひとつの傾向であるのかも知れません。
この長所を生かし、保護者の皆様には、生徒が日刊
新聞に親しむよう、是非ご協力願いたいと思います。

民放のほとんどのチャンネルには、常に薄笑いを
浮かべたタレントが登場します。NHKの番組その他
民放の優れた番組も、語られっぱなし、流されっぱなしの
テレビの宿命として、その中で慎重熟慮する
インテリゲンチャーは育ちにくいのではないでしょうか。

狭山ヶ丘高等学校付属中学校校長メッセージ

新聞をはじめとする活字文化に接し、思慮深い若者が
育つような環境を是非整えて頂きたいと思います。
中学生も高校生も、一日が新聞を読むことに始まるような
生活を心がけて頂きたいと思います。
青年知識人とは、読書する若者のことであります。英語も
最後には、思想そのものの、言語そのものの難しさに
変わってきます。

本校の図書館は、極めて完備したものであり、その蔵書も
相当にあります。読書に親しみ、思想豊かな人間に育って
下さい。

読書とは・・・

人間は、日常生活を送るうえでは、それほど多くの語彙を
必要とするわけではないが、「書き言葉」、すなわち「読み言葉」は、
話し言葉の数百倍もの豊かさを有しており、豊かな言語とは、
何よりも読書によってこそ獲得できる。

その大切な読書が、今、国民全体に忘れ去られようとしています。
狭山ヶ丘高等学校付属中学校校長メッセージ

「読書とは、時代を超えて天才と交わることができ、

寂しいときには孤独を慰め、嫌になったらぱっと

別れられる、まあ、人生最高の友でしょうかねえ」

(ラジオ番組で、読書とは何かと問われて)

存在感とは、愛情豊かで必要なときには

不正に厳しく対処することのできる教師である。

 

子供を深く愛するとともに厳しさのある教師である。

狭山ヶ丘高等学校付属中学校校長メッセージ

(ロンドン・パリへの修学旅行に引率した時のこと)
バスガイドさんが、イギリスの歴史、フランス革命のエピソードなど、
興味深く話を進める中、まるで聞いていなかったり、がやがやと
しゃべり立てたりするクラスがある一方で、話が少し低調になって
きたように感じられる場合でも、しっかりとその話に耳を傾け、
絶対に私語しないようなクラスもある。

「同じ時代、同じ学校に生活しながら、この違いはどこから生まれるのか」

「優しい先生」のクラスは概してマナーが悪く、「厳しい先生」のクラスは、
きちんと話を聞くことができる。生徒に丁寧で、その「人権」を極度に
尊重しているような先生のクラスが、意外にも他人の話に耳を傾けることが
できない。

厳しい先生の育てた生徒は、その表情に抑制が効いていて人間らしい
顔をしている。ところが「優しい先生」に育てられた子供の表情には、
抑制が働いていない。「獣のような顔」をしているケースが少なくない。

「厳しい先生は人間らしい生徒を育て、優しい先生は獣のような生徒を育てる」
ずいぶん乱暴な言い方だが、それが50年に及ぶ教壇生活から得た私の実感
である。

私も、自分の学生時代を振り返り、そう思います。

挫折とは新しい可能性の出現である
私のように永く生きてきて初めて分かることなのかも知れぬが、
人生には上げ潮の時と引き潮の時がある。上げ潮の時は何を
やってもうまく行くが、引き潮の時は何をやってもうまく行かない。

狭山ヶ丘高等学校付属中学校校長メッセージ

 

「今が引き潮だな」と感ずるときには、浅瀬でぱちゃぱちゃ
悪あがきしてはならない。その時には、やがて潮が満ちてくることを
確信して、自らの内面蓄積に努めることだ。

運命の女神の後ろ髪は、むんずと掴んで離してはならぬと言われる。
だが腕に膂力(りょりょく)がなければ、その後ろ髪を掴み続けることが
できぬ。だから引き潮の時、失意の時には、決して自暴自棄に陥らず、
自らを向上させると信ずる方向に努力し続けることが大切だ。読書でも
良い。語学の勉強に精を出すのも良い。山に登ったりして体力を養う
のも良い。やがて必ず潮が満ちてくる。その時に、蓄積した君たちの力が
真価を発揮するのだ。

満ち潮だけの人生がないように、引き潮だけの人生もない。
潮は必ず満ちてくる。その時には「それ行けどんどん」くらいの
気持ちで、思いのままに信ずる所を実現すれば良い。

挫折とは新しい可能性の出現である。

活字を友とせよ!
映像文化だけでは知性が育ちにくい。
テレビが一番恐れるのは、チャンネルを
切り換えられることである。民放の財政は、
すべてコマーシャルに依存しているの
だから、無理もない。

 

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最近のテレビのほとんどは、何かを売る
「販売テレビ」になってしまっている。
お笑い芸人を登場させたり、異常なほど、
視聴者に気に入られようと努力する。
常に薄笑いを浮かべて登場するお笑い
芸人もいる。そんな中で知性が、育つ
だろうか。
新聞、(しっかりした)雑誌を読むことが
大切だ。新聞には社説や、大学の優れた
学者の論文が載ったりする。あれをじっくり
読むことだ。

 

優れた文学作品を読むことも大切だ。私が
大好きな菊池寛先生は、「文芸は、実人生
の地理、歴史」と言っておられる。文藝春秋
社を作り、芥川賞を創設した先生だ。
活字の向こうには天才がいる。パスカルでも
トルストイでも、君たちは、いつでもこれらの
天才達と交わることができるのだ。

活字に親しむことは、国語力を育成し、英語
の学習にも役立つ。大きな志を持って活字に
親しんで欲しい。

 

 

現2 年3 年には、多少の学力差があ
る。この諸君が内進してきたときには、
一年間Ⅰ 類としてクラスを編成し、
主要教科について、能力別指導を
行う事になっている。高校2 年になる
ときには、それぞれの学力に応じて、
Ⅰ類 Ⅱ類 Ⅲ類に分かれる。

狭山ヶ丘高等学校付属中学校校長メッセージ
しかし、現中等部2 年、3 年生の諸
君らの中には、「自分たちは、高校卒業
の時、必ず東大に合格したいのだ」と
いう声を持つ人が少なくない。

そこで私は考えるのだが、英語、数
学、国語、理科、社会については、希望
者を特別に選考して、「東大特講」とで
も呼ぶべきグループ( 授業グループ)
を作り、その志に応えたいと思うのだ。

「特講」への「入室試験」は、9 月以
降、毎月行っても良いと考えている。
そうして、高校からの諸君の努力と共
に、東大への、二桁合格を是非とも達
成したいと思うのだ。

もっとも私は、必ずしも東大に拘る
ものではなく、東京工大 一橋大 北
大 東北大 京大 阪大等の、旧七帝
大、若しくはこれと同等の大学でも良
いと考えている。筑波には、今年三人
が合格したが、これも、東大同等の大
学である。

中等部1 年生、来年4 月に入学する
中学生については、全員をそのまま、
中高一貫部として3 年まで持って行
き、全員を東大に挑戦させたいと考え
ている。あるいは、東大特講を、内進
高入双方にまとめて、入室試験を行
うというような場面も出てくるかも知
れない。生徒諸君、先生方の意見も伺
って、次の一歩を決定して行く。

(完)

本校の中学校は、もともと東大への
大量合格を期待して創設したものだ。

中学校の場合、小学校6 年生を終わ
っての入学だから、みんな幼い。痛々
しいくらい小さく可愛い。無限の可能
性を秘めている。しかし、可能性は努
力、苦労に裏付けられなければ、しぼ
んでしまう。

その事もあり、本年度の中学校入試
からは、「補欠繰り上げ合格」というシ
ステムは行わないことにした。平均点
で60%に達する事を、合格の要件とした
のである。「そんなに厳しくしたら、誰
も入学しなくなる」との批判もあった。

しかし私は、そのため中学校を閉鎖
しなければならない結果になろうと
も、合格水準を低めたりはしないとい
う決意を固めたのだ。

結果は、大方の予想を超え、47人の生
徒が入学してくれた。入試に危険を
賭けた甲斐はあったと言えよう。

(2)へ続く…

走るのと違って、考える力には、個人
差などない。「脳味噌から脂が滲み出る
まで」、「脳味噌がくしゃくしゃになるま
で」考え抜いたときに、神懸かり状態が
生まれ、人は、隠された力量を存分に発
揮できるようになるのだと、私は信じている。

人間に、生まれついての能力差など
ない。そこまで自分を追い詰め、限界
思考を我が身に課する事ができるかど
うか、それが能力差を生み出す分水嶺
だと、私は考える。

狭山ヶ丘高等学校付属中学校校長メッセージ

本校にも、東大を目指している集団
がある。東大の大量合格は本校の悲願
だが、それを果たせるかどうかは、生
まれ持っての頭の良さなどの問題では
ない。

頭は、自らの努力で鍛え上げ、磨き
上げて行くべきものなのだ。受験生諸
君は、高校であれ大学であれ、「力がな
い」などと思わず、自らの限界に挑戦
して欲しい。まだまだ時間がある。難
関と言われる大学に合格することは簡
単ではないが、不可能ではない。要は
自らの持つ可能性に、「我から見切り
をつける」事なく、厳しく戦い続ける
事だ。

(完)

火事の際、女性が一人でタンスを持ち
出したが、火事が収まって、何としても
女一人の力で、元の場所に戻す事ができ
なかったという話を聞く。俗に言う「火
事場力」というものである。

狭山ヶ丘高等学校付属中学校校長メッセージ

私は、早稲田の大学院で勉強していた
頃、ドイツ語に不勉強であった。我なが
ら不甲斐ない話で、試験まであと四日し
かない。しかし、これまでも追い詰めら
れた経験はあるので、にやりとして、猛
勉強を開始した。一日 時間の勉強で
ある。勿論、寝る暇はない。神経が極限ま
で研ぎ澄まされたのかも知れない。三日
目に「神懸かり状態」になった。未知の単
語や句を、前後関係から類推するのだ
が、信じられぬほどの鋭さで、類推する
ことができるのである。

「神懸かり状態」は、どうして生まれる
のだろうか。素人考えだが、人間は、本来
の力の、30パーセントくらいしか使って
いないと聞く。その脳味噌に、さっとば
かりに血流が流れ込み、それが頭脳を、
異常に活発化させるのではないだろう
か。天才とは、そのような限界思考を、毎
日のように繰り返している人の事なの
だと思う。

(その2)に続く…

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