特攻隊員は何故死んだのか(3)

 

これが東京大空襲の真実である。ハーグ条約は
非戦闘員に対する攻撃を禁じている が、予め
退路を遮断した後に爆撃を加えるなどは、残虐
といわれる近代戦争にもその例を見ないもので
ある。

サイパン島は1944 年 7月9 日 日本軍全滅の後
アメリカ軍に占領された。 その際、米兵に辱めら
れることを潔しとせず、多くの日本人女性が崖の
上から身を投じた。その場所は今も「万歳クリフ」と
いう地名として残っている。

翌年(昭和20 年)  2月に硫黄島が、栗林中将以下
の将兵の徹底抵抗、全滅という激戦の末占領された。
敗れれ ばここを基地にして同胞への爆撃が行われる
ことを熟知する彼らは、最後の一兵まで戦ったのである。

事実米軍は、ここを基地に東京大空襲を行った。
8月6 日、広島、次いで 9日長崎に原爆が投下された。

その残虐さを、最前線の兵士達は、つぶさに耳にして
いたに違いない。自分たちの同胞が米軍の手によって
灼かれ殺され辱められようとしている。兵士達がそう自覚
したとしても、決して無理なことではあるまい。そのような
危機意識の中で、若者達は愛する者を守るという強い
使命感を抱いて死地に赴いたのではあるまいか。

その4につづく…

特攻隊員は何故死んだのか(4)

 

展示を見て回っているうちに、私は驚くべき事実を知った。

その中のある中佐は、 特攻出撃の日に二十九歳であった。
彼は中隊長である。隊長であるから彼は部下を特 攻隊員と
して死地に送り込まなくてはならない。

出撃者を見送る度に彼は 「俺も必ず 、 後で行くから」と語った
そうである。 しかし彼は飛行機を操縦することができない。

そこで、複座戦闘機の後ろに乗って 出撃することを嘆願したが
許されない。三度目は血書を認めて嘆願したがやはり駄目で
ある。

さりとて簡単に操縦技術を身につけられるものではない。

そこで彼は猛勉強の末、モールス通信の技術を習得した。
そして通信兵としてパイロットの後ろに乗り 特攻出撃したの
である。

彼は中隊長であるから、事前に家族に会うことができたの
かも知れない。彼は死の決意を若妻に語った。その妻は
夫の覚悟を知ると、三歳と五歳の子と一緒に1月の荒川に
身を投じて、夫の出撃の前に自ら命を絶った。

その遺書には「私たちはひと足お 先に行って、あの世で
お待ちしております。ですからあなたは、後のことは一切
気に せずにお役目を果たしてください」とあったと言う。

出撃を明日に控えての、亡くな った幼子二人と妻への
遺書も読ませてもらったが、私にとっては衝撃的な体験で
あっ た。

 

司令官であった板垣纏中将も特攻出撃している。もうひとりの
司令官大西滝次郎中将は、敗戦を知ると同時に官邸で割腹
自殺している。

「若者多数を殺した俺には、楽に 死ぬ資格はない」と言い残し、
介錯を拒否して、苦闘六時間の末、血の海の中で絶命 したと
言う。

特攻隊に関し、六十年後の今日、様々な見方があることであろう。
それぞれ尊い意見であろうが、戦争という限界的緊張状態の中で、
愛する者達を守ろうとする自覚の中にあえて死を選んだ数千の
人々があったことを忘れてはならないと思うのである。

<完>

特攻隊員は何故死んだのか(2)

 

帰りの車中色々考えたが、はたと思い当たることが
あった。

当時我が国はアメリカ との戦争の末期である。この
戦争をどのように評価するにせよ、我が国が戦争の
まっ ただ中にあったという事実である。

東京大空襲が行われた。昭和20年3月9日22:30
警戒警報発令、2機のB29 が東京上空に飛来して
房総沖に退去したと見せかけ、都民が安心した10日
00:08に第一弾が投下された。

東部軍管区司令部はまだ気付いておらず、当然ながら
空襲警報も鳴らない。00:15空襲警報発令、それから
約二時間半にわたって波状絨毯爆撃が行われた。

各機平均6 トン以上の焼夷弾を搭載した344機の B29の
大群が、房総半島沖合から単機または数機に分散して
低高度で東京の下町に浸入した。

B29の先発部隊が江東区・ 墨田区・台東区にまたがる40k㎡の
周囲にナパーム製高性能焼夷弾を投下して火の壁 を作り、
住民を猛火の中に閉じ込めて退路を断った。

その後から約 100万発( 2,000 トン) もの油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾
やエレクトロン(高温・発火式)焼夷弾が投下され 、逃げ惑う市民には
超低空のB29から機銃掃射が浴びせられた。

折から風速30m の強風が吹き荒れて火勢を一層激しいものにし、
火の玉のような火の粉が舞い踊り、強風に 捲かれた炎が川面を
舐めるように駆け抜け、直接戦争とは関係の無い一般市民は
次第に迫ってくる火の壁の中を逃げまどいながら、性別も判らない
ような一塊の炭と化すまで焼き尽くされた。

 

その3につづく…

特攻隊員は何故死んだのか(1)

 

「君のためにこそ俺は死んで行く」という映画を見た。
石原慎太郎氏の創案、作成 になるものだが、意外に
さらっとして涼やかな感じの映画であった。

見終わった後、 ロビーで語り合っている声を耳に
したが、若い人たちが率直に「良い映画だった
「感動した」と語っていたのには驚いた。

実は最近、鹿児島へ講演に行った折に、知覧の
「特攻追悼記念館」に立ち寄ってき たのである。
特攻隊員の中には十七歳の少年もいたそうである。

十七歳といえば高校二年生だ。自分が直接お預
かりしている生徒達の年齢であるだけに、私の思い
は複雑であった。

館長が付き添って詳しく説明してくださったが
毛筆で書かれている立派な遺書は、みな一週間
くらい前に書いたものだそうである。

前日になると、どれほど剛胆な人物でも、丁寧に
長い遺書を 認めることなどできるものではない。

前日にはみな、十行程度の簡潔な遺書を残して
いるだけなのだそうである。

「覚悟の死」を、まざまざと感じさせられ、身の引き
締まる思いがした。 非常時とは言え、私には十七
歳の青年を死地に送り込んだ事実には、違和感を
禁じ得なかった。

それは私が同年齢の生徒達を預かっている教師
だからなのかも知れない。 帰りの車中色々考えたが、
はたと思い当たることがあった。

 

その2につづく…

 

ひとりで行った入学式(5)

ところがこの鰊カスが、口いっぱいに含んで
かじっていると、もの凄くうまいのである。農協
に鰊カスが積んであるという情報は、その日の
うちに悪童達の耳に入る。

彼らは大挙して農協に出かけ、自慢の「肥後の守」
(折りたたみナイフ)で硬い鰊カスを ほじくり出し、
学生服のポケット一杯に詰め込む。

大人数で食うのだから、結局農協のおじさんに
見つかり、ビンタを張られることになる。

だが私はそうではなかった。 私は群れには入らず、
積み上げられた鰊カスの裏側からよじ登り、鰊カス
の穴の中に入り込んだ。

一番底まで入り込み、そこでゆっくりとほじって食う
のである。仲間がおじさんに見つかって叱られて
いる気配を「鰊カスの塔」の中で聞きながら、
おじさんの勤務時間の終わるのを私は待った。

身動きできぬくらい鰊カスを詰めたポケットを
押さえながら、月光の下を帰路についたもの
である。

 

振り返って、まことに個性的な、自我の強い
子どもであったと思う。生徒達に接し ながら、
そのひとりひとりが、それぞれどのような個性を
与えられてこの世に生まれてきているのかを
考えさせられるのである。

<完>

ひとりで行った入学式(4)

 

私の場合、衆に流されて行動するということは
ほとんどなかった。人に好かれないという方
でもなかったが、仲間と行動する以外に、
私には絶対にひとりで行動するという側面が
あった。

学校を隠れ休みする時にも、「不登校仲間」と
群れて行動することはなかったし、悪さをする
ときも、絶対に仲間と一緒に行動することは
なかった。

当時の子どもの悪さの代表としては、農協の
鰊カスの「窃盗」がある。鰊カスと言っても、
今の方には分かるまい。当時留萌や増毛の
浜には、湧く程に鰊が捕れた。

とても食いきれるものではない。そこで鰊を
五右衛門釜のような釜で煮て、加圧器で
絞るのである。そこから魚油が豊富に取れたし、
絞りカスは乾燥し、それを円形に整形 して
乾燥させる。真ん中に子どもが入れる程の穴
の空いた、厚さ30センチくらいの固まり、それが
鰊カスである。完全に乾燥しきっている。これを
崩して畑の肥料にする と、トマトでもイチゴでも、
素晴らしくうまいものが取れた。

その5につづく…

ひとりで行った入学式(3)

 

ともあれ私は校長の話に耳を傾けた。
眼鏡をかけた校長であった。校長は、
くどいくらい繰り返して「教育は本当に
難しいものだ」と語った。

少し繰り返しすぎたよう に思う。私は
「そんなこと嘘だあ。一年生に勉強を
教えることが難しいわけがあるか。
大人が一年生に勉強を教えるんだから、
易しくてたまらないだろう。それを難しい、
難しいと何回も言うんだから、この校長
先生は変だよなあ。嘘を言っているよなあ。
何でこんな嘘を言うんだろう。」と考えていた。

そのあと、どんな経過を踏んで帰宅したのかは
記憶にない。しかし、小学校の一年生が、あの
ような批判性を持って校長の話を聞いていたり
するものだということは、 心に銘記しておかなけ
ればならないと思う。

また、先輩にくっついてとは言いながら、ひとりで
入学式に出かけるとは、私も相当変わった子ども
だったに違いない。

「人間に生まれながらの能力差はない」とは、
私の信念だし、狭山ヶ丘高等学校の根本理念
ではある。しかし性格や個性となると、生まれな
がらの違いというものは、相当色濃く存在して
いるのではないだろうか。

 

その4につづく…

ひとりで行った入学式(2)

 

受付のあたりをうろうろしていると、「お母さんは?」と
訊かれた。

「母ちゃんは死んだよ」と答えると、婦人会の人々の
間にどよめきが走った。見る間に私は五、六人の
お母さん達に取り囲まれた。

中に事情を知った人がいたらしく、私の母が去年の
11月 に死んだことを告げたらしい。以来半年も経って
いないのだから、哀れに思ったのか、 お母さん達は
涙ぐんだ。

人の輪の中に取り囲まれながら私は、「俺の母ちゃんが
死んだら、よそのおばさんが泣くのか」と不思議でならず、
おばさん達を見上げていた。

入学式も終わり、新入生は教室に行って担任の先生の
お話を聞くことになる。しか し私だけは、「小川さんは
こっちに来なさいね」と、先生らしい人に手を引かれて、
保 護者と一緒に校長の話を聞くことになった。私の席は
一番前、校長の真ん前である。 保護者向けの話を
一年生に聞かせるとは、学校も馬鹿なことをしたものだと
今の私は思う。

 

その3につづく…

ひとりで行った入学式

狭山ヶ丘高等学校長 小川義男

18歳、高等学校を卒業すると同時に中学校の英語教師
になった。4年の後、大学に進学したが、学生時代の
4年間を除いても51年間教壇に立ち続けたことになる。

今も授業 を続けているという点では、この国で私が一番
古いのではないだろうか。「戦後教育の シーラカンス」と
呼ばれる所以である。

そんな私にも幼い日はあった。小学校の入学式にひとりで
行ったのだから、相当変わった子どもだったのだろう。
新しいランドセルを買ってもらってよほど嬉しかったのか、
私は家の前でランドセル姿で遊んでいた。

母のいない私には、姉が入学式に同行してくれることに
なっていたのだが、上級生の子ども達が学校へ行くと
言うのを聞いて、私もそれについて行っ てしまった。

姉は周りを見回したが私の姿がない。聞くと上級生達ともう
学校に行ってしまった と言う。それならそれで良いと言うので、
姉は学校へ行くのを止めてしまった。姉は 19歳だった。

ひとりで入学式に出かけた私も私だか、「それなら」と言うので
そのまま に放置した姉も姉である。今考えてみれば、もの凄い
家庭環境に育ったものである。 学校に行くと白いエプロンを
着たお母さん達が多数、受付の仕事をしていた。

今な らPTAの人たちというところであろうか。当時は「国防婦人会」
のお母さん達であっ た。お母さん達は、いつも白いエプロンを
身につけていた。それが彼女たちの「制服」 だったのかも知れない。

その2につづく…..

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