中学校・高等学校の部活紹介動画が完成しました。夏休みに実施したオープンキャンパスは中学はオンラインで、高校は授業体験のみ、人数制限の予約制で実施しました。本来は部活動も行い聖望学園の1日を体験してもらう行事でしたが、行なう事が出来ず、是非受験生の皆様に部活動の様子を少しでも見ていただきたく全クラブの協力で動画が出来上がりました。それぞれ短い時間となっておりますが興味を持っていただけたら幸いです。下記のリンクから見てください。

中学校部活紹介動画
高等学校部活紹介動画

 

10月、11月の学校説明会予定

【中学校】 10月17日(満員)、11月14日、11月7日Web体験授業、11月14日Web説明会

【高等学校】学校説明会 11月14日、11月28日、個別相談会 10月25日(満員)、11月8日、11月22日、平日は毎日開催しております。

山上の説教」
マタイによる福音書5章1節〜10節

主イエスは福音書の中でしばしば教えを語られましたが、その説教の中で最も有名なものはマタイ福音書5章から7章にかけてのイエス・キリストがガリラヤの山の上で語られた「山上の説教」です。その中にはみなさんが暗唱している「主の祈り」もあります。本日の聖書の箇所は「山上の説教」の冒頭部分の8つの幸いの教えです。ギリシア語の原文ではまず、「幸いである」と語られ、「~という人々は」と続きます。ここでは世の中の常識ではとても幸いとは思えないような人々が「幸いである」と語られています。「貧しい人々」、「悲しむ人々」、「飢え渇く人々」、「迫害される人々」です。当初、イエス・キリストの周りに集まった人々は社会の底辺の「地の民」(アム・ハーレツ)と呼ばれた人々でした。彼らのほとんどが貧しく、飢え渇き、悲しむ、社会から見捨てられた人々でした。しかし、主イエスは、そんな彼らを愛する神様がおられる、そんな彼らを救う神様がおられると語るのです。
先日、テニスの全米選手権で大坂なおみさんが優勝しましたが、彼女は黒人差別によって殺された犠牲者の名前をマスクに書いて試合会場に現れ、アメリカで黒人が差別され、抑圧されている状況に抗議しました。
イエス・キリストは当時の差別され、抑圧されている人々に福音を語りました。そして、主イエスは人間の救いを「神の国」と呼びました。マタイ福音書ではユダヤ人の婉曲的な表現で「天の国」、「天国」、みなさんの覚えている主の祈りでは「み国」となっています。
貧しい人々、飢え渇く人々、悲しむ人々が貧しいまま、飢え渇くまま、悲しむままで終わらない「神の国」が与えられるのです。神様は私たち一人びとりを愛してくださり、主イエス・キリストを十字架にかけてまでも、私たちを愛し通してくださる方です。
少し、余談ですが、私が撮ってきた2枚の写真を見てもらいましょう。1枚目は湖の写真ですが、山の上から撮ったイスラエルのガリラヤ湖の写真です。2枚目はガリラヤ湖のこの写真を撮った山の上にある「山上の説教教会」です。私は10年ほど前、研究調査もかねてイスラエルに一人旅で行きました。最初はエルサレムで数日間過ごし、次にエリコ、ベツレヘム、死海と調査し、最後にガリラヤのカファルナウムという町に行きました。日程の関係で、路線バスで宿のあるティベリアスから15キロほど離れたカファルナウムに着いたのは金曜日の昼過ぎでした。最初から分かっていたことですが、金曜日の午後二時以降には大変なことが始まります。それは安息日です。安息日はユダヤ教徒もイスラム教徒も一切の労働が禁止で、バス、タクシー、あらゆる交通手段が止まります。一軒残らず、すべての店も閉まります。エレベーターのスイッチを押すことも労働と考えられるために、エレベーターは自動で各階に泊まるようにセットされ、家電のスイッチを押すことも労働と考えられるので、大人は禁止で、子供がすることは労働ではなく、遊びと考えられるので、大人は子供に頼んで、スイッチを入れてもらったり、テレビのチャンネンルを変えてもらったりするそうです。
カファルナウムはイエス・キリストが宣教活動の拠点とした町で、そこには現在3つの教会があります。ガリラヤ湖沿岸には主イエスが5つのパンと2匹の魚で5千人を養ったことを記念する5千人の給食の教会と、主イエスがペトロに宣教を命じ、天国の鍵を託したことを記念するペトロの教会があります。そして、ガリラヤ湖を見渡す山の上には山上の説教教会があります。
私は5000人の給食教会、ペトロの教会を回った後、最後にバナナ畑の斜面を20分ほど登り、山上の説教教会に行きました。ここはある種、観光地なので、安息日にもかかわらず、多くの観光客がチャーターバス、自家用車などで訪れていました。しかし、バス停から歩いてここに来たのは私一人でした。昔の人は歩いて旅したのだから、帰りは歩いて帰ることを覚悟していましたが、少し考えが甘かったと後で後悔しました。日本なら、夜になっても街灯や明かりがあるものですが、イスラエルの田舎のカファルナウムには一切明かりがありませんでした。あるのは空の月明かりだけです。どうにかバス道に出て、宿のある町の方向に歩きだしましたが、道には歩道がなく、たまに通るトラックや車に轢かれそうになりました。そこで、生まれて初めてでしたが、ヒッチハイクを試みました。車が通るたびに手を挙げてヒッチハイクを試みましたが、1時間たっても2時間たっても誰も止まってくれません。歩きながら、お祈りしましたが、諦めたころに反対方向に向かう一台の車が止まってくれて、乗せてくれることになりました。彼らは一度通り過ぎたけれども、交通事故にあってはかわいそうだと思って引き返してくれたそうです。車に乗せくれて、わざわざ宿のある街に送ってくれたのは若いイスラエル人のカップルでした。
山上の説教の8つの幸いの教えの後半には「柔和の人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々は幸いである」とありますが、憐れみ深いイスラエル人2人のおかげで、私は無事宿に帰ることができました。
みなさんは、主イエスのもとに集まった貧しい、飢え渇いた人々とは違うかもしれませんが、わたしたちは時には彼らと同じように悲しいこと、苦しいことを経験します。そんな時、ぜひ祈ってください。愛の神様はそんな私たちを助けて下さいます。

聖書科の教員より

 

聖望学園では中高とも週に1度、礼拝が行われます。キリスト教の精神を学び心を落ち着かせると共に、ことば(メッセージ)を聞くことができます。毎週のメッセージから、人生を歩むヒントや心の支えを見つけてもらえると考えています。

部活や授業、行事では学ぶことのできない、「生きる糧」となるメッセージをもらっています。

ガリラヤ湖 (1)山上の説教

本学園の文化祭『中山祭』

今年度の中山祭は一般公開を中止し、学内で生徒達ができる企画でseibo-webcastival を開催しました。

 

当日に実施した企画は2本立て。

1本目。SEI-Tube。生徒たちから1分以内の面白い動画を募集しました。生徒たちが持っているiPadやスマートフォンを使って撮った動画を、生徒たち自ら編集して「笑える」「カッコイイ」「感動」する作品が集まりました。優秀作品には賞品も!

2本目。写真に一言グランプリ。とあるテレビのバラエティー番組にも似た企画ですね。「写真を見て、一言で笑わせてください」というお題に、全校生徒に答えてもらいました。iPadを駆使してできた企画です。これもまた、優秀作品には賞品も!

各クラスからの笑い声が校舎内に響く企画になりました。コロナ禍にあるなかで、安心安全を守りながら生徒たちに活躍してもらえる企画を考え、実施しました。

 

さらに、seibo-webcastivalのホームページを作成しました。

文化部を中心に発表してもらえるコンテンツと、高校1年生の「総合探究」での取り組みを発表するコンテンツを用意しました。

高校1年生は総合探究の時間で取り組んだ成果を1枚にまとめました。「課題」を発見し、「現実」を調査した上で「理想」へとアプローチする。さらに「まとめ・発表」することで、新たな課題を発見していくというプログラムです。

 

seibo-webcastival

9/26(土)から9/28(月)に陸上部埼玉県高校新人大会が行われ、本校陸上部が関東大会出場を決めました!

男子100m  第4位
200m  第2位
女子200m  第7位
走幅跳  第6位
走高跳  第2位
4×400MR 第7位

以上の結果、男子200M1名、女子走高跳1名が10月末に群馬県で行われる関東大会に出場が決まりました。

同じく10月末に広島県にて行われるU20日本陸上競技選手権大会へ
400mと三段跳の2名が選出されました!

関東大会と全国大会へ向けて頑張ります!!

誠実〜神の助けによって〜

テモテへの手紙 二 2章13節
「わたしたちが誠実でなくとも、キリストは常に真実であられる。
キリストはご自身を否むことができないからである。」

みなさんは、後で振り返ってみて、もっと誠実に対応していればよかったな、と思う事柄や人間関係はありますか。
わたしは、高校時代に部活の係の仕事をおろそかにしてしまい、一緒に仕事をするはずだった友人と疎遠になってしまったことがあります。もっと誠実に対応していたら、その友人と今でも連絡を取り合っていたのではないか・・・と思うと少し胸が痛みます。

みなさんの中にも、はじめは誠実に取り組み続けて行きたいな、と思って始めた事や人間関係でも、自分のやる気が続かなかったり、難しいこと、面白くないことが起こって、誠実に続けることができなかったという体験を持つ人がいるかもしれません。
また、わたしたちが周囲や社会で見聞きすることの中にも誠実でないことがたくさんあることを、みなさんご存知だと思います。

自分の内側に誠実さがなくて、後悔していたり、自分の外側、周りの人や社会に誠実さがなくて、がっかりしたり、傷ついたり、怒ったりする時、ぜひ思い出してほしいことがあります。

それは、神は、私たちに対して誠実である。ということなのです。
キリストは、わたしたち一人一人を、損得勘定なしの誠実さで愛してくださっています。
イエスが十字架にかかって命を捨てたという話は有名ですが、それは命を捨てるほどの私たちへの神の愛の印だったのだよ、と言われているのです。
「わたしは、あなたを愛している。あなたに誠実を尽くす。例えあなたが立派でなくても、元気な時もボロボロになって疲れた時も、わたしはあなたと共にいる。そしてあなたがわたしを見上げ続けるのならば、あなたの内側に、誠実という実を結ばせ成長させるよ。神の助けと力によって、わたしが誠実であるようにあなたも誠実に生き続けなさい。」と語っているのが聖書です。
わたしたちの内側に時々湧き上がってくるごまかしたい気持ちを捨てて、共に成長させられていきましょう。

聖書科の教員より

 

聖望学園では中高とも週に1度、礼拝が行われます。キリスト教の精神を学び心を落ち着かせると共に、ことば(メッセージ)を聞くことができます。毎週のメッセージから、人生を歩むヒントや心の支えを見つけてもらえると考えています。

部活や授業、行事では学ぶことのできない、「生きる糧」となるメッセージをもらっています。

「あなたの善意で平和はつくれるのか?」(コリントの信徒への手紙 一 13章12節)

 

善意と言うと、なんとなく自分の中に善い思いを常に持ち続けなくてはいけないのかなと思ってしまいます。でも、いつも善意を持つことを目指していることが世の中の平和になるとは限りません。今日はそんなお話をします。
電車の中で座っている一人の青年がいます。次の駅で一人のご高齢の方が乗り込んできた時、青年は席を譲ろうとしました。勇気を出して「どうぞ、お座りください。」と声をかけます。すると、ご高齢の方は青年を見るなり、声を荒立てて「私はまだ席を譲られなくても大丈夫だ。迷惑だ!」と言いました。青年はその場を立ち去ってしまいました。もし、ご高齢の方が自分の思いにとらわれず、青年の思いを受け取って、ありがとうと伝えられたら平和が生まれたかもしれません。青年がどう思ったかはわかりませんが、もし自分の思いだけに支配されていたならば、「せっかく譲ってやったのに……」と相手の気持ちを汲み取れなかったかもしれません。
この二人の対面を通して思わされるのは、自分の持つ思いは、たとえそれが良い思いだとしても、相手を傷つけることがあるということです。「自分はこうだ、相手のためを思ってそうしているんだ」という自分の理解できる範囲の思いをもっていると、相手の思いを受け取れないのです。1コリント13章12節には、私たちが知るところは物事の一部分にすぎないと書いてあります。自分が見ていることだけが正解ではないし、自分が思っていることだけが正しいのではないということを知ることは大切です。聖書に出てくる善意という言葉の原語には寛大さという意味が含まれています。善意を持つということは聖書的には寛大な心を持つということになります。心に相手の思いを聞くスペースを作ることは大切です。そこから世界の平和が始まることを信じましょう。

聖書科教員より

 

聖望学園では中高とも週に1度、礼拝が行われます。キリスト教の精神を学び心を落ち着かせると共に、ことば(メッセージ)を聞くことができます。毎週のメッセージから、人生を歩むヒントや心の支えを見つけてもらえると考えています。

部活や授業、行事では学ぶことのできない、「生きる糧」となるメッセージをもらっています。

10/18実施の高校入試対策特講の申込が9/1から始まりました。例年200名以上の参加の行事ですが、今回は70名限定とします。昨年度の入試問題を用いての解説授業です。受験予定の受験生は申込お願いします。本校HPの「入試イベント」から入り、マイページ登録を済ませてから、申し込んでください。
高校では9月開催の学説は定員達し、今後の申込は10月11日の第2回学説は今現在申込可能です。学説終了後は個別相談も行ないます。参加申込お願いいたします。

昨年度の様子

昨年度の様子

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7月26日、8月2日に高校のオープンキャンパスが行なわれました。授業体験のみの人数制限での行事となりました。申込み締切り一週間前には定員に達しました。参加できなかった受験生には大変申し訳なく思っております。ただ、人数が少なかった事で、本来聖望学園で行なっている一人一人iPadを持ち、学習支援アプリのメタモジクラスルームでの授業を行なう事が出来ました。4月からのオンライン授業でも通常授業ができた授業方法です。9月がら学校説明会や個別相談会を予定しております。このような状況ですので、早めに相談を受けてください。決まってるい日程で行ないますが、時間や回数の変更があります。HPでご確認ください。お待ちしております。

 

「諦めない、見捨てない」(マタイによる福音書18章21節-22節)

何をされても「いいよいいよ」と言って怒らないことが赦すこと、寛容なことなんだと思っていました。けれども最近「怒っていい」と言われました。「あなたの言動が私を傷つけた」という意思表示をしていい。それをしなければ、相手は成長できないからです。
神さまは、聖書の中で結構怒っている。けれども神さまが決してしないことがあります。それは諦めることと見捨てることです。赦すとは、諦めず、見捨てない事
行動には線を引くけれど、人に対しては線を引かない。誰かが何かをしたときに「どうせまた〇〇するだろう」と決めつけない。その人が成長する可能性、その人が行動を改める可能性を勝手にシャットアウトしてはいけない。そして期待し、成長を見守るのです。逆の方が簡単です。ですが、私たち自身も、多かれ少なかれ、誰かにそうやって赦されてされてきたんじゃないかと思うんです。
私は中学・高校をキリスト教主義の学校で育ちました。中学生の時に信仰を持ってクリスチャンになりましたが、聖書の授業が嫌いでした。そしてある時聖書の先生にケンカを売りに行った。その先生は、ひたすら私の話を聞いてくれた。
帰り道、目的は達成したはずなのに、すごく嫌な気持ちだった。その嫌な気持ちの正体に気づき、私が間違っていたと気付いたのは自分が聖書の先生になってからでした。
去年の秋、先生に電話しました。「昔先生に謝っていただきました。今度は私が謝りたくて電話しました」って。私が気づいて謝るまで15年近くかかりました。でも、その私の可能性を先生はシャットアウトしなかったんだと思のです。私の要求を受け入れることはなかったけれど、私のことは受け入れてくれました。
私たちは、みんな誰かに成長を見守られてここまできた。赦されないようなことをしてしまっても、諦めないで関わってくれる人がいたと思う。だから今度は、私たちが、誰かを諦めない人に、見捨てない人になっていきたい。

聖書科教員より

 

聖望学園では中高とも週に1度、礼拝が行われます。キリスト教の精神を学び心を落ち着かせると共に、ことば(メッセージ)を聞くことができます。毎週のメッセージから、人生を歩むヒントや心の支えを見つけてもらえると考えています。

部活や授業、行事では学ぶことのできない、「生きる糧」となるメッセージをもらっています。

「希望はどこから来るのか」ローマの信徒への手紙4章23節〜5章5節

まず、最初に一つの絵画を見てもらいます。これは世界三大美術館の一つ、ロシアのサンクトペテルブルクにあるエルミタージュ美術館のレンブラントが描いたアブラハムの絵です。                                thumbnail?bbs_id=14&bbs_message_id=6066&bbsflg=1&m=1594020495
アブラハムは神様から多くの国民の父とする、大きな土地を与えるとの約束を得て旅立ちましたが、25年過ぎても子供を授かることができませんでした。そして、ようやく子供が与えられたにも関わらず、神様はアブラハムに大きな試練を与えられました。モリヤの山に行き、その子を殺してささげなさいという命令です。アブラハムは悩み、苦しみましたが、神様ならば、たとえ死んでも復活させてくださると信じて彼は旅立ちました。
先程の絵はアブラハムがまさに自分の子供を殺そうとするところに、アブラハムの信仰がわかったとして、天使が止める場面です。レンブラントはアブラハムの手からナイフが落ち、それが空中に浮いている瞬間を描いています。キリスト教美術ではアブラハムがイサクを捧げることはキリストの十字架の予型(出来事による預言)と考えられます。アブラハムは信仰の父、神の友とも呼ばれる人物です。聖書でアブラハムのことを悪く言う人は誰もいません。彼は完璧に正しい人間だったから、神からの祝福を得たのでしょうか。彼は常に信仰を貫き、一度も失敗したことがなかったのでしょうか。古代イスラエルの男性中心の父系社会では彼は完璧な人物とみなされたでしょう。しかし、アブラハムの生涯は必ずしも正しいことだけではありません。創世記を読みなおすと、アブラハムは一度ならず二度も三度も、いや人権が認められる現代の視点からすると、彼は四度も失敗したように考えられます。彼は保身のために妻サラを妻ではなく、妹と偽り、2度も外国の王に妻を奪われました。彼は子孫を得るために側女(愛人)ハガルを取りました。妻サラの死後、彼は再び側女(愛人)を取りました。アブラハムは決して失敗しない人間ではなく、たとえ、失敗しても、罪を犯しても、悔い改めて、神を信じて生きようと苦しんだ人だったのではないでしょうか。
罪を犯しても、悔い改めて、神を信じて生きようとする者を、神様は決して見捨てません。神はその独り子を十字架につけてまでも私たちを愛し通してくださる方です。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(5:3-4)とありますが、正直言って私は教師、牧師ですが、苦難や試練は嫌です。忍耐はできれば、したくないです。しかし、真面目に正直に生きていても、時には苦難や災難が起こります。それが人生です。ではどこに希望があるのでしょうか。わたしたちの頑張り、努力、人間性には限界があります。わたしたちではなく、罪人を愛し通してくださる神様に希望があります。「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」(5:5)ので、私たちには希望があります。今週もこの神様を信じて生きていきましょう。

聖書科教員より

 

聖望学園では中高とも週に1度、礼拝が行われます。キリスト教の精神を学び心を落ち着かせると共に、ことば(メッセージ)を聞くことができます。毎週のメッセージから、人生を歩むヒントや心の支えを見つけてもらえると考えています。

部活や授業、行事では学ぶことのできない、「生きる糧」となるメッセージをもらっています。

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