スクリーンショット (15)本校の弓道部は高校キャンパスにある弓道場で中高合同で練習しています。小学生は弓を射ることができないため、全員が初心者としてスタートします。そんな中、中学校弓道部は先日行われた都大会の団体戦で女子が準優勝、男子が5位に入賞し、ともに関東大会への進出が決定しました。

映像たっぷりの弓道部紹介記事を是非ご覧ください。

 

似顔絵1 - コピー (2)毎日本当に暑いですね。日々感じる中学生の姿、中学校での学びについて考える連載〖ほりしぇん副校長の教育談義〗第6話目をお届けします。毎週土曜日の10時に配信しています。今回は「学校において自由とは何か」について考えていきます。

 

 

 

6 自由について

みなさん、おとなと子どもとではどちらが自由だと思いますか? こんな質問をすると意見が分かれるだろうと思います。「子どもは仕事をしないでもすむ。遊んでいてもいい。大人にはやらなければいけないことがたくさんある。たぶん重い責任というものがあるのだろう」。一方こんな意見も出てくるでしょう。「子どもは親の言うことを聞かないといけない。お金を稼げないから、自分で好きなものを買えないし、好きな場所にも行けない」。「では、お金があれば子供も自由?」 私たちは、自由と言う言葉をどこか漠然と捉えているように思います。

では、こんな質問をされたらどう答えるでしょうか? 「生徒の自由を大切にする学校についてどう思いますか?」 数年前、教員を目指している大学生たちに問いかけたことがありました。意見が分かれました。とても大切なことであると答える学生がいる一方、「自由だけでは怖いと思う。自由を第一に考えていたら秩序がなくなってしまうのではないか。先生が大変そうで不安」。こんな回答も少なくなかったのです。これはある面で当然なことのように思います。「自由」をどうとらえるかによって全く異なる意見になりうるのです。互いの意見はすれ違ったままです。

自由とはもともと獲得するものでした。与えられるものではありませんでした。それがいつの頃からか、何でもあり、わがままといったマイナスのニュアンスでとらえられることが起こるようになってきました。現代の学校教育の中での「自由」とはいったい何なのか、まず私の考えを述べておきたいと思います。

学校の中で理不尽な校則がないこと、制服がないといったことは、自由な学校の表面的な事象であって、それをもって自由な学校と言えるわけではありません。自由の本質は、生き方の問題にあります。自分、そして自分をとりまく周りの人間ができるだけ幸せになる選択を自らの責任と意思で選び取ることができることこそが自由であると定義したいと思います。

そこには他者の自由を侵す自由はありません。自分を粗末にする自由もありません。自分さえ良ければという発想からは、結局は他者からの信頼を得ることはできず、自分の幸せにはつながってはいきません。ただ、幸せというものを具体的に考えていくとき、それがだれにとっても同じではないという困難さにぶつかります。それを乗り越えるためには他者の心を思いやる想像力が必要です。

もちろん自分のことでいっぱいいっぱいの時、そんな余裕がないということも当然のこととしてあります。でも、他者の心を想像することは自らの心を客観視することでもあります。異なる視点でものを観ることができなくてはなりません。

自分や周りの人にとって何がより良い選択か自分の頭で考えられること、そしてその先に進んだとき、自らの意思と責任で進む路を決めることができるようになること、このことこそが「自由な学校」の存在理由なのではないかと思うのです。

選択肢が多いというだけでは、人は身動きが取れなくなってしまいます。自分で選ぶためには、知識も、勇気も、他者との信頼関係も、知恵もなくてはいけない。それを授業や行事、さまざまな活動を通して獲得していくことが、中学校時代の目標であると思います。

このように考えると、初めから自由があるわけではなく、学校は生徒一人一人が「自由になる」ために「自由に生きる」ことができるために存在することになります。それは「おとな」になるということでもあります。ここでいう「おとな」とは、もちろん年齢上のことではありません。「自由」の裏にある「責任」をしっかりと受け止めることのできる人間のことです。責任のない役割というのは楽です。でも、楽しくありません。そこには自分の意思、自由がないからです。必然的に他者からの評価を気にする生き方になってしまいます。逆に、自分の意思で行動することは楽ではありません。失敗したらという不安が必ずつきまといます。努力しなければなりません。しかし、勇気をもって自ら考え、行動することは、その結果が必ずしも自分の思い描いたものとは違ったとしても、楽しいことなのではないでしょうか。そのような意味で「自由」を生き方の問題であると述べたわけです。

 

数年前、卒業を迎える中3の国語の最後の授業で、大澤真幸の『もうひとつの自由-思考のヒント-』の一部を読みました。エンデの作品に『自由の牢獄』という童話があります。かぎのかかっていない、無数の扉のある部屋に入れられた男は、ついにどの扉を開けることもできなくなってしまうという寓話が語られます。自由と言われる現代社会において、「決められない」ということが何かキーワードになっているような気もします。「ニート」「ひきこもり」「自分探し」といった言葉を持ち出すまでもなく、自分や現実とかけ離れたところに責任や理想を求め、そのせいで逆に身動きがとれなくなっている空気が充満しているように思うのです。

中学校最後の期末試験、時間が余った人のためのボーナス問題として次のような設問をつくってみました。

あなたが考える「自由の困難さ」とは何ですか。いくつかの具体例をあげながら、わかりやすく説明しなさい。また、それに対する現時点でのあなたの意見があれば述べてください。

(*次回は生徒の意見をご紹介します。8/14配信予定です。)

 

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明星学園中学校・高等学校を卒業し、社会人になって間もない若き卒業生のインタビュー動画を今年度4本お届けする予定です。4人ともタイプの異なる魅力的な生徒でしたが、中高6年間の間にさまざまな出会いや葛藤があったようです。夢をもって社会人として歩き始めた彼らの根っこの部分に、明星学園で過ごした濃密な時間があったとしたら、これ以上の喜びはありません。

 

 

今回お届けする動画は鈴木さん。何事にも一生懸命チャレンジし、楽しんでいる、そんな生徒でした。7月21日に配信した「4人の卒業生が語る明星学園」に登場してくれた4人と同級生でもあります。インタビューの合間に在校生(中学生)の様子がちりばめられています。自分の10年後をどのようにイメージするか、そのきっかけになってもらえればとも思います。

明星学園中学校卒業生インタビュー1 鈴木桃

明星学園中学校卒業(2012年)後、明星学園高等学校、立命館アジア太平洋大学、University of Bradford(英)大学院修士課程修了。ブラッドフォード大学大学院では新興国や途上国での紛争解決を目指す「平和構築学」を学ぶ。平和構築をビジネスという観点から考え、社会的価値と経済的価値の良いバランスを見つける仕事をしたいと、この4月に三菱商事株式会社に入社。

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日々感じる中学生の姿、中学校での学びについて考える連載〖ほりしぇん副校長の教育談義〗第5話目をお届けします。毎週土曜日の10時に配信しています。

 

 

 

5 学校は何のためにあるのだろう?

中学校は、何のためにあるのでしょうか。今の時代、ネットで多くの情報を得ることができます。SNSで多くの世界中の人とつながることも可能です。大学の授業さえ、ネットで受講することが可能な時代になってきています。好きなことを好きな時間に自分のペースで受講することができるわけです。そこでは、煩わしい人間関係で悩むこともありません。いじめも不登校という概念すらなくなるでしょう。

確かに今後、これまでの小中高、そして大学へと、入試に対応するための勉強という形から、さまざまな学びの形、道筋が生まれてくることでしょう。これまでは、もしかすると中学校に通う目的など深く問い直されることはなかったのかもしれません。義務教育だから。社会に出たときに常識として知っていなければいけないことを学ぶため。それは当たり前のこととして、受け入れられてきたように思うのです。

しかし、学びの場が学校以外にこれほど広がった現代、改めて学校の存在理由が問われます。特に中学校の意味とは何なのか、ここで考えてみたいと思います。それは、どういう学校にしていかなければならないかを考えることでもあります。

 

私は現代の中学校の役割は、自分が将来どう生きていくか、どういう進路を選ぶか選択するための基礎的な力を身につけることにあると思います。そのためには、バランスの良いカリキュラムが必要になります。芸術教科の大切さを思います。世界の広さを知る必要があります。自分としっかり向き合うことを学ばねばなりません。入試に対応するための合理的なカリキュラムが、バランスが良いとは思えません。こと中学校においては、選択授業を多くし、自分の好きなものを勉強することが、誰にとってもいいことだとも思いません。そもそも中学時代に自分のことをどれだけ分かっているのかと思うのです。小学校時代のちょっとした出来事から、苦手意識を持ってしまったということもあるかもしれません。勉強そのものではなく、それを教えてくれた先生との相性が悪く、それを理由に授業にきちんと向き合えなかったということはありませんか?

中学時代に自分の好き嫌いを決めてしまうのは本当にもったいないことだと思います。それは、自分の可能性を狭めてしまうことでもあります。まだまだ経験していないことがたくさんあるはずです。本気で挑戦してもみないで、面白さが感じられるはずはありません。やってみなければ分かりません。それは親のためでも、先生のためでもありません。そして面白さを感じたとき、人はもっと頑張ることができます。

だからこそ先生は、面白い授業をしなければなりません。もちろんそれは、芸人さんのような面白さを期待しているわけではありません。学問することの面白さを伝えることです。驚きと発見のある授業です。できるできないという評価軸だけではない、対話のある授業場を目指すことです。生徒の好奇心に応えることのできる授業に出会ったとき、生徒は大きく成長します。だからこそ小学校時代の担任の先生と違い、教科ごとに先生が次々に変わる中学校の専科体制が意味を持ちます。このようなさまざまな出会いがあって、はじめて自分は何が本当に好きなのか、どのような道に進んでいきたいのか、おぼろげながらでも考えるスタート地点に立つことができるのだと思います。

そしてもう一つ、多様な人と一緒に考える、共に何かに取り組むという経験をすることも学校の役割として大きなものです。学校ではクラスに所属することになります。その教室で出会うクラスメートは自分で選べるわけではありません。これもまた、好き嫌いで選べるわけではないのです。この自分とは違う価値観を持ったクラスメートとの出会いは、時に悩みの種ともなるでしょう。当然です。皆と仲良くなどというのは、きれいごとに感じてしまうでしょう。大切なのは、友だちか友だちではないか、好きか嫌いかの二つにはっきり分けることはないということです。もちろん好きな友だち、嫌いな友だちはいることでしょう。でもそれはほんのわずかなはずで、そのどちらでもない人たちが実はほとんどなのだと思います。その人たちとどう接していけるかの方が重要だと思うのです。そういう人のことを含めて友だちと呼んでもかまいませんが、どちらにしても二元論で考えると苦しくなります。相手とどういう距離感で接するか、実は友だち関係の悩みは自分が変わればうまくいくことがほとんどです。自分が変わるというのは負けではありません。強さです。

論語に、『知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ』ということばがあります。山にはどっしりと落ち着いていて、いつもと変わらぬ安定感というイメージがあります。ぶれることのないやさしさと強さというイメージも加わります。では、山に対比される水にはどのようなイメージがあるでしょうか。中学1年の授業で生徒と考えたことがありました。「生きていくために必要なもの」、これでは対比になっていません。「山と違って動く」、「入る容器によって形を変える」、「小さな穴があっても、別の場所に移動できる」。水には自由なイメージがあります。その場の状況や相手によって、自分の形を変えながら行動する臨機応変さと豊かな知恵があります。ここで誤解してほしくないのは、自分の形を変えることが必ずしもずるいことではないということです。相手をだましたり妥協しているのではありません。水はどんな容器に入っても、どんな速さで流れても水であることに変わりはありません。自分が自分であるために自分を変えることのできる人こそ「知者」と言えるのではないでしょうか。

(*次回は8/7配信予定です)

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明星学園中学校では、週に2時間「木工・工芸」の授業があり、1クラスが2つに分けられて、半期(約12週)ごとに「木工」と「工芸」に取り組みます。「木工」では、7年(中学1年)で石材加工や木工加工を通して工具の使い方を学び、8年(中学2年)では木の器づくりに挑戦。9年生(中学3年)になるとデザインのプレゼンをして5~6人ずつのチームになり、卒業制作として家具を制作します。
子供たちならではの自由な発想を活かした、手を使ったものづくり。木材を加工し、アイデアを形にしていくという面倒で答えがない作業の中で、生徒たちは自分と向き合い、問いかけ、大きく成長していくといいます。他にはない木工の授業。その時間の持つ意味が、8年生の授業見学と担当の青柳先生への取材から見えてきました。

取材記事はこちらから

 

似顔絵1 - コピー (2)日々感じる中学生の姿、中学校での学びについて考える連載〖ほりしぇん副校長の教育談義〗第4話目をお届けします。毎週土曜日の10時に配信しています。

 

 

 

 

4 本当の厳しさとは何か?

「厳しい先生」「やさしい先生」、そんな言い方をよくされます。しかし、厳しさとはいったいどういうことを指すのでしょうか? すぐに大きな声で叱る先生を「厳しい先生」というのでしょうか。それとも要求度の高い先生を「厳しい」というのでしょうか。要求度が高くても、やさしく教えてくれたら? 訳が分からなくなってしまいます。職員室で同僚と話していると、教員の間で「厳しい」と思われている先生と、生徒の間で「厳しい」と思われている先生が全く別だったりすることがあります。私自身も卒業生から「やさしくていろいろ相談にのってもらえた!」と言われることもあれば、「怖くて、自分から話しかけることができなかった!」と、卒業後になって初めて言われることもありました。

私は、「厳しさ」と「やさしさ」は相対立するものだとは考えません。本当に生徒と真剣に向き合っている先生なら、どちらも備わっているものでしょう。表面的な「厳しさ」や「やさしさ」にとどまっている限り、見えないものがあります。自分自身を振り返れば何とも恥ずかしいばかりです。

 

かつて、ある先輩の言った「明星学園は〝柔らかな鍛錬主義〟の学校だ」という言葉が、なぜか今でも私の心に強く残っています。「明星学園」と「鍛錬」という一見不似合いなつながりが、「柔らかな」という言葉をつけた瞬間、私の中でしっくりおさまりました。その当時の私は、明星のいう「個性尊重・自由・平等」が「鍛錬主義」と相反するものだといった常識に、ある違和感を持っていました。本当に「鍛錬」は「個性」をつぶすものだろうか? 「個性」をみがくためにこそ「鍛錬」が必要な時もあるのではないか? しかし、その違和感について語る言葉を当時の私は持っていませんでした。ただ、感覚として感じていただけです。「言葉」は、使われていくうちに手垢がついていきます。「善・悪」「右・左」「新・旧」といったように単純な二項に分類され、与えられたイメージと引き換えに、その言葉が本来持つ大切な何かが失われていきます。言葉から意味が失われた時、それを使う人間の心もまた単純化されていきます。「鍛錬」という言葉には「根性」「管理」「苦しい」といったイメージがつきまといます。そのイメージと明星学園とは結びつきません。しかし、「個」を伸ばすために必要な「鍛錬」も絶対にあるはずです。〝柔らかな鍛錬主義の学校〟——この言葉は、私の明星学園に対するイメージを最も端的に表す言葉となり、試行錯誤を続けていた私が、先輩教員たちとこの感覚を共有しているのだという安心感を得たときでもありました。

 

一部の学校では、今でも登山行事や遠泳、歩行大会などを実施しているところがあります。本校においても中学校1年生による八ヶ岳登山は、伝統的な行事です。中学1年生全員が八ヶ岳最高峰の赤岳(2899m)に登るなどという学校はそうはありません。長野県の地元の中学校でも多くは硫黄岳登山です。「鍛錬主義」はここでも生きています。高山では自分の足しか頼るものはありません。もちろん、車もコンビニもありません。立ち止まれば自分が遅れるだけです。ではなぜ「柔らかな」なのか? 明星学園の登山が、山ですれ違う他の学校と異なるところがあります。他のほとんどの学校は、全員が1列になって歩いています。引率の先生はトランシーバーを手にし、集団が離れないよう連絡を取り合っています。それに比べて明星は、全員を登らせることは同じであっても、全体を9人グループ16班に分け、グループごとに教員がつきます。子どもたちの体力はさまざまです。足の強さも一様ではありません。足の速い子に合わせるとグループは崩壊してしまいます。弱い子を先頭にし、体力のある子には全体を見る役割を与えます。たった2泊3日であっても、そのグループの中では大きなドラマがあったり、成長があったりします。明星の教育・授業を象徴しているとも言えます。グループを引率する教員の力量も問われます。力量とは体力ということではありません。子どもたちの様子を観察する力、疲労の度合い、わがままの見極め、グループを「同質の個」の集団としてまとめるのではなく、「異質の個」を互いに認め合えるようにまとめようとする志向性。

昔から山で生徒を引率するとき、教師がやってはいけないことをいくつか言われてきました。一つは、疲れ切った子どものリュックを教員が一人で背負わないこと。その教員に体力的な余裕があるかないかは関係ありません。その子のリュックの中身は、グループの生徒みんなで分担する。もう一つは、生徒を背負うこと。本当にそうしなければならない非常事態の時は、小屋に何とか連絡を入れ、助けを求める。今になってやっとその意味が分かるようになってきました。山は非日常です。日常の常識が山では非常識であることも多々あります。大人だろうと子どもだろうと自分のことは自分で守らなければなりません。自分を守れない人間が他の人を守ろうとしたとき悲劇が生まれます。もちろん、「本格登山」と「学校登山」はちがいます。でも、自然の厳しさを忘れてはいけません。自然の厳しさの前では、謙虚さが求められます。

(*次回は7/31配信予定です)

和太鼓4今年の高等学校総合体育大会(インターハイ)は北信越で行われます。

都大会・関東大会を優勝した高校女子バスケットボール部、6種目で出場の陸上部の活躍が楽しみです。
陸上部は、男子100m(竹尾拓真)、男子100m(神戸毅裕)、男子走高跳(内野秀喜)、女子走高跳(森﨑優希)、女子棒高跳(小林美月)、男子4×100リレー の6種目に出場します。
コロナ禍の中の全国大会となりますが、あたたかく見守っていただければと思います。
「輝け君の汗と涙 北信越総体2021」

また、2年連続東京都代表となった高校和太鼓部は「第45回全国高等学校総合文化祭」(和歌山)に出場します。
「第45回全国高等学校総合文化祭 紀の国わかやま総文2021」
各部代表の生徒のコメントをお届けします。

【陸上競技部】神戸毅裕
この度、男子100m、男子4×100mリレーで7月28日から始まる、福井インターハイに出場することになりました。11年6組、神戸毅裕です。
男子100m、4×100mリレーともに、優勝を目指します。コロナ禍で、不自由がある中でも競技を継続させていただけていることに感謝しています。そして、この気持ちには結果で恩返しできるよう頑張ってきます。少しでも学校や皆様に明るいニュースが届けられればと思っています。応援のほどよろしくお願いします!

【女子バスケットボール部】菅野響(キャプテン)
8月9日から行われるインターハイに出場します。試合はインターハイTVで放送されるので、ぜひご覧ください。目標は日本一になることで、決勝は8月15日に行われます。東京都の代表として自覚を持ち、また新潟の方たちに明星のユニフォームを一日でも多くお見せできるように全員で頑張ります。皆さん応援よろしくお願いいたします!

【和太鼓部】
和田幸樹(部長)
ぼくたちは和歌山市で8月に行われる「全国高等学校総合文化祭」に出場いたします。実は.昨年度も出場予定でしたが、コロナの影響で中止になってしまいました。今年は先輩たちの思いも背負って精一杯頑張るので応援よろしく願いいたします。
山森南花(副部長)
いつも応援してくださりありがとうございます。コロナ禍で演奏機会が減ってしまった中、皆さまからの応援の言葉が力になりました。その恩返しとなるよう小学校の日本の芸能クラブの時から目指した舞台、精一杯演奏してまいります!
※演奏は3日(火)の3番目です。

(中学校副校長 堀内)

スクリーンショット (4)

創立以来の「個性尊重」「自由平等」「自主自立」という教育理念を基に、子どもたちの感性を愛しみ育てる明星学園中学校。その理念やモットーで育まれた生徒たちは、どのように個性を伸ばし、学園卒業後はその感性をどのように活かしているのでしょうか。今回は明星学園らしさを体現している4人の同級生(卒業生)に集まってもらい、彼らが大好きだった明星学園を振り返りながら、だからこそある今の自分について語ってもらいました。

インタビュー記事はこちらから

<取材時の所属>

永江君  早稲田大学 政治経済学部 経済学科3年

垂井君  東京藝術大学 音楽学部 楽理科4年

菊池さん 都留文科大学 文学部 初等教育学科4年

小池さん 法政大学 グローバル教養学部 グローバル教養学科4年

 

 

女バス (2)東京オリンピック「女子バスケットボール」の日本代表に2名の本校卒業生が選出されました。
◇本橋菜子 79回生(2011年度卒)
(早稲田大⇒PG/東京羽田ヴィッキーズ)
◇オコエ桃仁花 84回生(2016年度卒)
(PF/富士通 レッドウェーブ)
静かにテレビで応援したいと思います。
(中学校副校長 堀内)

似顔絵1 - コピー (2)

日々感じる中学生の姿、中学校での学びについて考える連載〖ほりしぇん副校長の教育談義〗第3話目をお届けします。毎週土曜日の10時に配信しています。

「ほりしぇん」というのは初めて担任を受け持った学年の生徒につけてもらったあだ名です。それ以来、生徒からも保護者の皆さんからも自然とそのように呼ばれてきました。今後ともよろしくお願いいたします。(中学校副校長 堀内雅人)

 

3 「ふつう」でなければいけないか?

もう30年近く前になるでしょうか。明星学園に勤め始めた私にとって夕方から夜にかけての時間は、先輩の先生たちの教育論や具体的な指導法についての、議論とも喧嘩ともつかないやりとりをきくことに費やされていました。何軒かの決まった飲み屋がありました。もちろん新米教師とて常に第三者として安全な場所にいられるわけではありません。酔った勢いで何度も、簡単には答えようのない質問をふっかけられもしました。豊かで濃密な時間でした。

前後は覚えていません。ある先輩教師が「たしか小林秀雄が書いていたと思うんだが」と切りだしました。「個性的な人間というより、変わり者といった方がどこか人間的な温かみを感じないか?個性なんて、教育で育てるようなもんじゃないんだよ」。新鮮なことばでした。『自由の大切さ』『個性の大切さ』は多くの学校で教育目標に掲げています。明星学園においてはなおさらです。その本当の意味について吟味することなく、否定しようのない言葉としていつのまにか受けとめていました。その後、会話がどう発展したのか、あるいはそれだけで終わったのかは全く記憶にありません。しかし、翌日私は小林の『考えるヒント』にねらいをさだめ、さっそく書店で文庫本4冊を買い求めていました。「個性」をキーワードに斜め読みを始め、ついにその箇所をみつけました。なぜか、当の先輩の先生にも話さず、秘やかな作業でした。

≪誰も、変わり者になろうとしてなれるものではないし、変わり者ぶったところで、世間は、直ぐそんな男を見破ってしまう。つまり、世間は、やむを得ず変わり者であるような変わり者しか決して許さない。だが、そういう巧まずして変わり者であるような変わり者は、はっきり許す。愛しさえする。個性的であろうとするような努力は少しもなく、やる事なす事個性的であるより他はないような人間の魅力に、人々はどんなに敏感であるかを私は考える。と言うのは、個性とか人格とかの問題の現実的な基礎は、恐らくそういう処にしかない、これを掴まえていないと、問題は空漠たる言葉の遊戯になるばかりだ、と思えるからである。≫(小林秀雄『考えるヒント』)

今まで何度かこの言葉に救われてきました。その度ごとにそのときの自分や状況に引き寄せて考えることのできる不思議なことばでした。そして、その度ごとに肩の荷がおりるような気がしました。

とりたてて個性的になろうと自分にプレッシャーをかけることなど必要はない。いや、それ以上に自分を変わり者と見られることを恐れる必要はない。変わり者、上等ではないか。変わり者が変わり者として生きられる社会こそ居心地の良い社会だと思います。そこには本当の意味での人間と人間との関係が生まれてきます。そもそもそう簡単には変わり者にはなれないのです。

「変なやつって言われた!」たぶん今までに何十人という生徒がこんなことばで助けを求めてきました。その度ごとに「変なやつでいいじゃないか。おれだって変な先生なんだから。普通ってどういう人なんだよ?」と問い返してきたと思います。(「何言ってんだ、この先生は!」と別の意味でヘンなヤツと思われてしまったかもしれませんが)

みんなが同じように仲良く、そんなコミュニケーション能力など、息の詰まるような関係の上でしか成り立ちません。毎年100数十人の新入生が中学校に入学してきます。変な生徒とそれに輪をかけた変な先生達が、中学校での生活を一緒に創っていく。そう考えると愉快ではないでしょうか。

(*次回は7/24配信予定です)

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