初めて体験する短期留学、そして一人でのホームステイ。

これから起こる何もかもが初めてで未知の世界だったため、私は好奇心でいっぱいで出発の日が待ち遠しかった。
出発の日、「メリッサと何を話そうか。こんなことを話そう。あんなことも聞いてみよう。」私はパートナーのメリッサと話す気満々でいた。

ワクワクが止まらなかった。

そして待ち合わせ場所に到着。それぞれのパートナーと顔合わせをして、それぞれの家へ帰った。

私もまずはメリッサとあいさつを交わし、彼女のご両親にもあいさつをして、家まで車に乗せてもらった。

そこまでは良かったのだが、全てがうまくいくわけではなかった。

私は車の中でメリッサに話しかけられたのだが、聞き取れないことが多々あり、聞き取れたとしても、自分の思いをすぐに、上手く言葉にできなかった。

私は少し自信をなくした。

そのため、自分からほとんど話しかけられずに一日目は終わってしまった。

ずっと楽しみにしていた短期留学が、不安と緊張で急に怖くなった。
二日目、家から学校までの道のりを、メリッサと音楽を聴きながら過ごした。

学校に着いて、メリッサが日本語で話しかけてきた。学校で日本語の授業を選択しているそうだ。

メリッサは、彼女にとって外国語である日本語を話すことを怖がらず、間違えても平気な顔をして話していた。

私はその時思った。「そうか、私にとって、英語は外国語だから話せなくて当然だし、文法なんて間違っていて当たり前だ。」すると、少しずつ怖さが薄れていった。

メリッサや彼女の友達が、英語で、時には片言の日本語で私に話しかけてくる。

そして私は片言の英語で返す。

そんなやり取りをして、私の質問や思っていることが上手く相手に伝わり、良いリアクションを得られた時は本当に嬉しかった。

私は日が経つにつれて、学校生活が楽しくなっていき、いつの間にか初日の怖さは嘘のように消えていた。

しかしその頃には、別れがもう目の前にあった。
別れの時。

やはり、仲良くなれた分だけ別れは辛く私は涙があふれた。

メリッサに目をやると、彼女も泣いていた。

メリッサは私達との別れを惜しんでくれたのだ。

私にとってそれが、何よりも嬉しかった。

 

(高等部1年生 女子)

 

 

                     

「夏休み最初の1週間」

私の高校2年の夏休みはイギリス現地の女子校への短期留学で幕を開けた。

私にとって今回の留学は去年のリベンジという意味があった。

去年の私は英語はしゃべれない、会話にも入れない、友達に頼りっぱなし、という最悪の日本人だったと思う。

すごく貴重な経験だったのに無駄にしてしまったと今でも後悔する。

だから今回は去年とは違う場所だけど、もっと積極的に英語を話せるようにという目標でがんばった。

そして始まった私のリベンジ。

学校に登校するのはバスで。

立教にいると「登校」という概念がなくなるので(寮から教室棟までの距離は100メートル?)まずはそこから新鮮だった。学校に着くとまず物理室へ。そこで授業の前にみんなでおしゃべり。カフェテリアでココアを奢ってくれたりした。そしてホームルームの教室に移動し、出席、連絡をした後、いよいよ授業開始。

私のお世話をしてくれたニキータは理系の女の子。

将来は薬を作りたいと言っていた。だからとっている授業もほとんど理系。化学、生物、数学。

化学や生物はGCSEで少し習っているので単語は分かる。

だけど授業の内容はほとんど分からない。悔しかった。

少しでも成長していたかったのに。

でも数学は半分くらい分かったし何よりニキータや他のクラスメートがすごく優しかった。

授業内容を簡単に教えてくれたり「わかりますか」と日本語のメモを渡してくれたりした。

難しい授業の時はハリーポッターの本を貸してくれたり。3学期、みんなが来た時に同じように優しくしてあげたいと思う。

他にも休憩時間に一緒に新聞を読んだり、スポーツ観戦をしたり。

去年の私だったらできなかったことも自然にできるようになっていて嬉しかった。

言葉の壁はやっぱりまだあるし、自分の気持ちを表現する英語がうまく見つからなくて辞書に頼ることもしばしば。

だけどやっぱり意思疎通が出来た時の感動はすごくやる気がでる。

もっともっとしゃべりたい。そうなるにはもっと勉強しなくちゃいけないんだけども。

みんなとしゃべっていて一番感じたことはみんな、将来の夢が明白なこと。

高校の時から「こんなことを勉強したい、だから今勉強しなきゃいけないことはこれ」というのが分かってる。

私は将来のことを考えているつもりだったけど、そのことを今の勉強につなげることはしていなかったし、あんなにまだ自分の夢を熱く語れない。

次会う時までにしっかり語れるようにしておこう。

最後の日、コモンルームでお茶を飲んだ後、お別れ。あんなに別れがさびしかったのは始めて。

涙が止まらなくて自分でもびっくりした。英人の子に日本語で「ずっと友達でいましょう」と言われてまた涙が。

3学期に会えるとわかっていてもつらい別れだった。

3学期が待ち遠しい。

(高等部2年生 女子

お久しぶりです。
先日22日に久しぶりに立教にお邪魔させていただきました。
以前と変わらず懐かしい雰囲気を存分に味わうことができました。
お昼御飯中にもかかわらずご対応いただいた添田先生、ありがとうございました。
また近いうちにお邪魔できればよいかと思います。
その際は、よろしくお願いいたします。

お久しぶりです。
先日22日に久しぶりに立教にお邪魔させていただきました。
以前と変わらず懐かしい雰囲気を存分に味わうことができました。
お昼御飯中にもかかわらずご対応いただいた添田先生、ありがとうございました。
また近いうちにお邪魔できればよいかと思います。
その際は、よろしくお願いいたします。

                                                           

boxという英単語にはボクシングをすると言う動詞の意味がある。

僕にとってボクシングとは人がお互いに顔や腹を殴り合って、額や体から血を流す残酷なイメージのスポーツ...いや、スポーツとも正直言い難いものだった。

試合を見に行きたいとも思ったことがない。
しかしこの本を読んでいくと次第に自分がボクシングに興奮していくのに気がついた。

なんて熱いスポーツなのだろうと思った。試合の前には自らの限界まで減量し、自分のフォームが身に染みつくまで練習し、相手のパンチを恐れないよう精神力を高め、そして死を覚悟して試合に臨むのだ。

相当の肝が据わっていて根性のある奴しか出来ないのだろうと思った。

情けないが自分は絶対やっていける気がしない。

練習の場面では部員を応援し成長を喜ぶ自分がいて、試合では実際に会場にいるかのように手に汗を握るような思いでこの本を読んでいる自分がいた。

自然にその本の中に溶け込めた。部員の勝利を自分のことのように喜んだ。
この本を読んで改めてスポーツの素晴らしさを痛感した。

スポーツを通して学ぶことは技術だけではない。

僕は中学の時サッカー部に入っていたが、今でも仲が続いている人はクラスメイトより部活のメンバーの方が多いことに気づいた。

高3になって最初の行事に球技大会がある。

この球技大会でもスポーツを通して何か学べたらいいなと思った。

そのためにも準備や練習をしっかりやっていきたい。
(高等部3年生 男子)

                                 

僕は父親の仕事の都合で、人生のおよそ3分の1を海外で過ごしてきた。

そんな中で僕が出会ってきたものは色々とあるが、その中でも小さい頃から僕にとって一番すごいことのように思えたのは、日本と違う国の人たちが、日本語ではない言葉を話す光景だった。
自分には全くわからないのに、他の人にとってはその言葉を話すことが普通。

その人達の「当たり前」の中に僕も入っていけたらな、と小さい頃からぼんやり思っていた。

日本語を話す外国人を見たときなんかは、僕は宇宙人に遭遇したかのような衝撃を受けたような記憶がある。「違う言葉を僕も話せるようになりたい!」という気持ちは昔から幼くても僕の中のどこかにあった気がする。
しかし、昔の僕はやはり、違う人達の中に飛び込むのが怖かったのだろう。

その国にいた時、僕は現地校やインターナショナルスクールへ行きたいと親に頼んだりすることはなく、日本人学校に通っていた。

そうして今も立教に通っているが、今も英語を一生懸命自分なりに学んでいるつもりだし、大学に行けたら、自分の触れた外国語をもう一度真剣に学びたいという気持ちが立教にいて固まった。

言葉への興味がより大きくなってから、僕は語学や言語学に関する本を自分で探しては読むようになった。
 
この本は25年前に1人の言語学者によって書かれたもので、以前僕が読んだ別の言語学者の本に紹介されていた推薦図書の1つだ。

この本は、外国語を学ぶ上での土台として、語彙、文法、発音や辞書など様々な観点からの、言語を学習する人間として大切な意識や考え方、心構えを僕に教えてくれた。
しかし、それらの様々な指南もさることながら、僕の頭により強く残ったのは、本のあとがきの部分に引用されていたあるチェコ語の諺だった。
「いくつもの言語を知れば知るほど、その分だけ人間は大きくなる。」
最初にこの言葉を読んだ時、僕は少し驚いた。

語学というものと、人間的な成長というものを結びつけて考えたことがなかったからだ。

なので、僕はその諺の意味を考えてみる必要があった。
僕のたどり着いた結論は、もし人間として成熟していることの1つの要素として「他者の価値観を理解して受け止めること」が挙げられるとすれば、なるほどこの諺の言っている事にもうなずけるのではないか、というものだった。
ある言語を学ぶということは、その言語やその話者たちの持つ価値観を学ぶということでもある。

もし多くの人達の価値観を「言語」というものを通して理解することができるなら、多くの言語を理解しているということは、その人がそれだけ多くの人達の価値観を理解できる、大きな人間であることを意味するのではないかと僕は思うのだ。

もちろん、言葉を1つしか話せない人の人間的価値はどうか、という話をしたいのではない。

しかし、このように言語を通した他者の理解の仕方もあるのではないだろうか。
古代ギリシャ人は、自分たちの民族を「ヘレネス」、他の民族の人間を「バルバロイ」と呼んでいた。

「バルバロイ」は今でも形を変えて、英語の中で「野蛮な、未開の」という意味で残っているが、その言葉の元の意味は「どもる者」だったそうだ。

つまり、言葉を話すのは自分達だけで、他の者が話すのは言葉ではないという認識が古代ギリシャ人にはあったという。
しかし今は、違う言語があるという認識は僕達の中にあり、それを学ぶことができる環境にある。

外の世界に目を向け、その中に飛び込んでいく時に、言葉は必要不可欠なものだ。

言語を学ぶことで、自分の世界が広がり、他者をもっと理解できる。

そのことを忘れることなく、これから語学をたくさん学んでいきたいと思う。
(高等部3年生 男子)

                                                             

この本は短編集だったので、その中で1番自分が考えさせられた作品について書こうと思います。
その物語の主人公は、妻と子供を2人持つ、会社勤めのお父さんです。

彼は会社でも家でも「器が大きい」とか「大人だ」とか「強くて余裕がある」と言われ、一目置かれているような存在でした。

彼自身も、「間違ったことだけはしたくない。正しい、理想の自分になるために頑張って生きているのだ。」という考え方を持っていました。

しかしそれ故、何もかも合理的に考えてしまって、弱い人の気持ちを上手に理解してあげることが出来なかったり、他人に気を遣って、少しでも良い雰囲気にしようとして、どんなに怒っている時でも、どんなに悲しい時でも、無理矢理自分をコントロールして感情を抑制してしまうような人なのでした。
彼のお話を読んで、「自分にもこういう所があるな。」と、少し共感した所があります。

それは、「自分をコントロールしようとする所」です。

私が何かと関わる時、その何かについて、知りたいとか楽しみたいとかもっと深く関わりたいという気持ちがあるのに、心のどこかで、「深入りしてはだめだ。とらわれすぎてはだめだ。」と思って、自分の本心とは裏腹に、あらゆる物と心の距離をとってしまう癖があります。

何かにとらわれすぎたり、感情移入してしまうと、本当の自分を見失ってしまうようで怖くて、それなら自分の好奇心を抑えてでも、百パーセントの自分を確立させておこうと思ってしまうのです。

この考え方で今まで生きてきて、望み通りあまり人に流される事なく、自分の信念や目標を見失う事なく生きることができていたような気がします。しかしそんな事をしているうちに、何かに夢中になったり、本気になったり、他人に優しくしてあげたり、誰かと協力したりする事ができなくなってしまった気がします。

自分の本音を、理想とか信念とかでうまい具合にあしらいすぎて、自分や他人やその他のあらゆる物と真剣に向き合う事が出来なくなってしまった事に気付かされました。
理想や、合理的な事は、確かに一番正しい事かも知れないけれど、そうでない事から学べる事だってたくさんあるのだから、不必要だと決めつけないで、面倒だろうと、ひとつひとつしっかり向き合って、色々な考え方をして、強くて人間らしい人間になりたいなと思いました。
(高等部3年生 女子)

                       

Wolverhampton Girls High Schoolでの5日間は、私にとって学んだ事や感じた事がたくさんあり、とても貴重な体験となりました。
 
最初はホームステイも一人で、初めての短期留学だったので不安でいっぱいでした。初日もちゃんと話せるかずっと心配していましたが、どの子もすごく気を遣ってくれて一つ一つ丁寧に説明しながら接してくれました。
 
私のステイ先の子は、すごく日本語を学びたいという気持ちがある子で、いつも「こういう時は日本語では何て言うの?」と聞いてきて、教えてあげるとすごく喜んでくれました。でも自分で英語を考えながら説明するのも、ちゃんとそれが伝わった時は私にも達成感があってすごく嬉しかったです。
 
留学期間が終わりに近づくに連れて、他の友達との接し方も分かってきてgirls’ talkで話している事も理解できるようになり、すごく楽しく過ごせました。
そして立教に帰る時には、立教生がステイさせてもらった子はもちろん、他の友達も見送りに来てくれて涙の別れとなりました。こんな短い間で、お互い言葉があやふやな中こんなに仲良くなれた友達が出来たのは私にとって初めてでした。
私は友達というのは言葉だけでコミュニケーションをとるのではなく、心で通じ合うものだなというのを感じました。
 
それでも英語がもっと分かればもっと楽しくなるだろう、自分で英語が話せるようにならなきゃいけないと、改めて考えさせられました。
 
3学期には向こうから立教の方に来てくれることになっているらしいので、その時はこの5日間よりもっと友情を深められるように英語を頑張りたいと思います。

 

(高等部2年生 女子)

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