『AIに負けない子育て~ことばは子どもの未来を拓く~』(内田伸子著 ジアース教育新社)の「はじめに」の中で、著者は「AIに負けない力を育てるのに親や先生は何ができるのかについて提案してみたいと思いました。」述べており、そこに興味を持ち、本を手に取りました。
今回は、その著書で取り上げている日米における『教室談話』の違いとその影響を話題にしたいと思います。
まず、著者は、教育社会学者の渡邉雅子さんの指摘する日米における小学校5年生の歴史の授業の「教室談話」の違いを取り上げておりました。
その違いを一覧にしますと、次のようになります。
同学年の授業談話、授業風景とは思えませんね。
次に、この教室談話の違いが
・日本の子どもの作文は、「時系列因果律」で書かれており、最後には、教訓を付け加える子どもが多かった
・アメリカの子どもの作文は、「結論先行型構造作文」だった
ということで、作文の書き方にも影響しているというのです。
「スタンフォード大学心理学部附属小5年 マーク」の書いた作文を引用しますと、次の通りです。
①ジョンにとってはこの日はとても不運な一日でした。なぜ(why)不運だったかというと(because)②前の晩、遅くまでゲームで遊んでいました。そこで(so)朝寝坊してしまいました。③あわててバス停に急ぎましたが、おまけに、バスを乗り間違えてしまいました。③遅刻したため野球の試合に間に合わず試合に出られなかった。④そこで(so)ジョンにとってこの日はとても不運な一日だったのです。
その小学5年生の作文は、
・「AはBだ。」
・「なぜならば、それはC、更にDであった。」
・「その結果、Eとなった。」
・「つまり、AはBなのである。」
という構成であることはたしかですね。
<「教室談話」=「結論先行型作文」>かは別にして、授業(での言葉)が子どもの未来を拓く源であることは確かだなと考えています。
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