少人数教育と 個別的な対応を 重視する むさしの学園小学校です。

 

この夏は、むさしの学園の歴史について、書かせていただいてきました。

今日は、とうとう夏休みも最終日。

太平洋戦争終了後の新しいむさしの学園についてのお話です。

 

では、本題の前に、これまでの記事のおさらいをします。

 

大正時代の募集広告(最初に新聞に掲載した募集広告から、

 むさしの学園の精神をひもときました)

むさしの学園の生まれましたわけ(次の続むさしの学園の生まれました

わけと合わせて、創立者の創立の弁をご紹介しました)

続むさしの学園のうまれましたわけ

札幌農学校とむさしの学園(創立者と札幌農学校との間にあった、

関係をご紹介しました)

創立1年目のむさしの学園(当時の日誌から、創立直後の様子を

ご紹介しました)

創立2年目からのむさしの学園(やはり、当時の日誌から、2年目~

昭和16年までの様子をご紹介しました)

存亡の危機・むさしの学園小学校(昭和16年の存亡の危機から、

戦争中のむさしの学園の様子をご紹介しました)

 

もし、今日のブログから見てくださった方がいらっしゃいましたら、

上の過去記事も読んでくださると、とてもうれしいです。

 

さて、では、本題です。

 

1945(昭和20)年8月15日 終戦。

武蔵野の地に、御岳の疎開地から6年生が戻ってきました。

それに、その弟妹が仲間に加わり、教師の家で複式学級での学校の

再開です。

美術と音楽は、荻窪の教師宅まで出かけての授業でした。

 

1946(昭和21)年

次第に、戻ってくる子どもが増えてきます。

しかし、校地と校舎がありません。適した土地を武蔵野で探しています。

入学式は、教師の家の庭に掘っ建て小屋の仮校舎を作り、なんとか

おこなうことができました。

 

1947(昭和22)年

6年生の高原学校が軽井沢でおこなわれました。

そして、11月、とうとう武蔵境駅南側の日本獣医畜産大学南側に

土地を見つけ(現在、ドラッグストアがあるあたり)、創立者の

佐藤藤太郎が、自宅を売却して購入しました。

 

1948(昭和23)年

校舎建築のための月謝前納を母の会でお願いしたところ、皆様、

ご協力くださり、資金の目途がつきました。

しかし、復興の建築ラッシュで資材が入手できません。

佐藤は、郷里の秋田に戻って、材木を手に入れました。

基礎工事に使うコンクリート片や砂利は、境浄水場から譲り受け、

子どもたちと教師たちで運びました。

 

1949(昭和24)年、認可が下り、校舎建築がはじまりました。

全児童が、自分たちの学び舎づくりに参加し、4年生以上の子どもたちは、

武蔵境駅で、貨車から材木をおろすことさえやりました。

 

1950(昭和25)年、落成式・祝賀会です。保護者と来賓、子どもたち

が集い、心をこめて祝いました。

 

1951(昭和26)年、学校法人武蔵野学園が誕生します。

全校母の会では、校長から、「健康な人、心の美しい人、気品の香り高い人、

高遠な理想・志を抱く人、夢を持って世界に羽ばたく人を育てたい」、

そして、

「子どもに大志を抱かせなさい。必ず、なる、と希望を持ちなさい」

と、力を込めて話がありました。

 

1952(昭和27)年、1943年を最後に途絶えていた臨海学校が

復活しました。

 

激しい戦争の下、教師の家を使った文字通りの寺子屋学習という時代を

経て、西久保から武蔵境という新たな地を定めた新しいむさしの学園。

 

ベビーブームもあり、入学希望者もどんどん、増加しました。

1954(昭和29)年には、卒業生のデザイナーにより、制服が制定

されました。

 

そして、かねてからの強い要望に応えて、中学校設置のための校地購入に

至ります。1957(昭和32)年のことです。

 

新しい日本が、貧しいながらも活力に沸いていたように、むさしの学園も

新たな地で、根付き、葉を茂らせていきました。

 

しかし、このままでは、話は済まなかったのです。

 

新しい校地購入後のお話は、来週にさせていただきます。

 

むさしの学園小学校

042-361-9655

 

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