430日金曜日。英国民の人々が楽しみにしていた、ロイヤル・ウェディングの日です。
 花婿のウィリアム王子は、現英国女王エリザベス2世の孫にあたり、チャールズ皇太子と故ダイアナ妃の長男。花嫁はケイト(キャサリン)・ミドルトン嬢。スコットランドのセント・アンドリュース大学の同級生だった二人です。
 この日、英国は休日。立教でもオフの1日となりました。朝の礼拝の最後に、校長先生が「今日は特別だぞ。」とロイヤルウェディングについて説明して下さいました。「女王のお孫さんは沢山いるので、その方達の結婚式毎に休日を作っていたら大変ですが、今日のウェディングは特別。2番目の王位継承権を持っている未来の国王の結婚式ですから。ウィリアム王子とケイトさんの出会いは10年以上遡る大学時代。セント・アンドリューズという大学で知り合ったそうですが、丁度彼らが在学していた時に、立教の卒業生の宮脇樹里さんという人も同じ大学で勉強していたんですよ。


 10時。食堂(ニューホール)の大スクリーンと職員室入り口の大画面テレビでテレビ鑑賞が始まりました。テレビの前の生徒はまだ少なく、体育館やコートで、友人らと思い思いにバドミントンやテニスなどのスポーツを楽しむ生徒、球技大会のTシャツ作りに励む高3たち、テレビルームでDVDをみたり、ドミトリーでゆったり過ごす者もいました。


 11時の結婚式が行われる時間になると、続々と生徒が集まり始めました。キッチンの英国人スタッフも一緒に鑑賞。ケイトさんの姿を見て、女子生徒からは「きれーい!!」の声が連発されていました。最初は女生徒ばかりでしたが、スポーツや作業を中断して数名、また数名と何かに引きつけられるようにして男子生徒も増え、結局ホールだけで60名以上が集まりました。あとから聞きますと、教員室入り口や寮内のコモンルームなどでも鑑賞していたそうです。


 結婚式が執り行われるのは、ウェストミンスター寺院。立教でもしばしば高3が見学に訪れる場所です。意外とこぢんまりとした寺院に2000名が参列したそうです。男性はモーニングやスーツ、女性はワンピース(もしくはツーピース)に帽子、という英国らしい式服にも面白さがありました。ケイトさんのドレスは式前から話題になっていたものですが、シンプルで長めのローブの純白ドレスに、繊細なレースの上着。ティアラはエリザベス女王にお借りしたという奥ゆかしい出で立ちです。世界史の先生によると、そもそも初めて純白のウェディング・ドレスとレースの衣装を着用したのは英国のビクトリア女王なのだとか。1840年に行われた、ビクトリア女王とアルバート公の結婚式ですが、産業革命で発達した英国において、純白の衣装とレースを生産できることが経済力の象徴であり、これからの英国の発展を願って身にまとったのが始まり。3段のウェディング・ケーキもこのとき初めて製作されて注目を集め、以来結婚式ではお決まりになったのだそうです。ビクトリア女王とアルバート公といえば、二人の結婚によってドイツからクリスマスツリーが持ち込まれたことでも有名ですね。


 式は粛々とすすめられ、ウィリアム王子もケイトさんもやや緊張ぎみの表情で誓いの言葉をかわす様子でした。気が付くと、テレビの向こうの式の厳かな雰囲気がテレビ画面からスーッと流れ出てきて、まるで立教生も式に参列しているような、ちょっと不思議な雰囲気でした。互いに思ったことをしゃべりあうときも、ひそひそと話す姿がみられ、本当に式場にいるかのような空気でした。その後もこの日だけは特別に大スクリーンをつけたまま、昼食。結婚式を終え、晴れてウィリアム&キャサリン夫妻(ケンブリッジ公爵夫妻)となった二人がバッキンガム宮殿へ向かうパレードが見られました。

           

私が立教英国学院に入学した一番の理由は勉強をする環境が整っていたことです。

私の家は、質問しても誰も解らないと言って答えてくれないことが多いのですが、その点、立教英国学院ではいつでも先生に質問できるのが魅力的でした。

その他にも、緑が多いことや、共学や寮での生活など、今までの生活とは違った体験ができる事などといった理由がありました。

そんな未体験の生活に不安と期待を抱きながら入学した立教英国学院は、想像より遥かに良い学校でした。

ただ一つ違ったのは、一番魅力に感じていた勉強をしやすい環境より、もっと魅力的だったのが、立教生の『優しさ』だったことです。

何もわからず入学した私に、同学年の子はもちろん、先輩方や私より前からいた下級生の子たちも、色々な場面で私に立教英国学院のルールを教えてくれました。

立教英国学院は、普通の学校とは違い、寮の自分の部屋から出る時はパジャマの上に必ずガウンを着る、食事中に遠くにあるものをとりたい時は、伝言ゲームのようにして人に取ってもらってまわしてもらうなど、他の学校にはないルールが多く、なかなか慣れませんが、みんなが教えてくれるので頑張って早く覚えたいです。

私のこれからの目標は、オリエンテーションで校長先生もおっしゃっていたように、『正の連鎖』が続くよう、今度は私が新入生の見本になれるような、優しくて人に頼られるような人になれるように、Reading Marathon等といった自主参加型のものにも積極的に参加して、多くのことを学び、きちんと自分のものにしていきたいと思います。

                      

今年の春休みは大きな地震から始まりました。

今まで一度も経験したことのない大きな揺れに始めはとても驚きました。

ディズニーシーに友達と遊びにいっていた私はその日に家に帰ることができませんでした。

千葉に津波が来るのではないかとたくさんの人が予想していて皆が混乱している中、避難所では電話や充電器、飲み物などをゆずり合っている大人の姿を見て、いつもは全く意識していなかった日本人の心の温かさを感じました。

一方で、テレビで家が津波にのまれている様子を大泣きで見ている子供や、必死で家族を捜しているお父さんの姿を見ると自分が無事に家に帰れたという喜びなどとうに忘れて、果たして自分がこのような状況になった時にどうなってしまうのだろうと思いました。

毎日震度4ほどの地震があって、落ち着かない日々はあっという間に過ぎて、いつの間にか春休みは終わってしまいました。

被災者の気持ちになって色々なことを考えましたが、これという答えは出ませんでした。

今、イギリスにいる私は少し冷静に日本の事を考える事が出来ます。募金を少ししただけで満足していた自分、ついつい食料を見て買ってしまった自分など、春休みの私には反省すべき点がたくさんありました。
日本に帰るまでまだまだ時間がありますが、今度日本に帰った時には春休みの私ではなく、被災者の方々の心の支えになるような自分でいたいです。

(中学部3年新入生 女子)

   

私は最初この学校に来るのがとっても不安でした。

この学校が日本ではなくイギリスという遠い国にあるということや全寮制だということで、何もかもわからなくて心配になりました。でも、親にこの学校を勧められて興味を持ちました。

お父さんやお母さんから離れて生活するのも初めてで、ちゃんと友達と暮らしていけるかなと思ったり、先輩・後輩が厳しいかななど不安になりつつも、この学校に入学することを決めました。

しばらくして手紙が送られてきて、そこには「この立教英国学院に入学を許可する」と書いてありました。

もともとは、試験も受けようとしていなかったし、普通の公立の学校に行こうとしていたので、こんなイギリスにある日本人学校に来れるとは夢にも思っていませんでした。

そして、受かったからにはこれから勉強やスポーツなど、なんでもあきらめずに頑張ろうと決めました。

もともと成績が勉強してものびなかったので、中学校の漢字や計算についていけるかなと思っていました。

そしたらあっという間に小学校の卒業式になってしまいました。

友達に違う中学校に行くということは話していなかったので、とっても驚いていました。

でもみんなから手紙をたくさんもらったり、プレゼントをもらったりしてとても勇気づけられました。

そして、いざ立教英国学院へ来ました。

そうしたら、自分が思っていたより、すごく先輩が優しくしてくれたり先生が親切に話かけてくれたりしたので、学校生活が楽しみに感じました。

そして、一日で友達たくさんできました。

友達ができるか心配だったけど、全然大丈夫でした。

これから生活が大変になるかもしれないけど、部活や勉強、特に数学を中心に一生懸命頑張りたいと思います。

 

(中学部1年新入生 女子)

      

私は4月17日に立教英国学院に入学した。

ここの学校は2010年から日本在住の人でも入学可能になった。

私はそのことを両親に聞いてからずっと行きたいと思っていました。

そして私は今、あこがれの学校に入学しました。緑が多く自然の中にある、とてもいい学校です。

全寮制なので最初は寮の人と仲良くなれるか心配でした。

しかし、同じドミトリーの人はみんな優しくて同じ学年の人が多かったので今はもうみんな友達です。

 学校での毎日はとても楽しく、先生も優しい方達ばかりでとてもうれしいです。

でも、朝の早起きだけは少しつらいです。それでもこの英国学院での生活は本当に楽しいです。

 話は変わりますが、この学校に来る少し前にテニスにはまりました。

まだまだ初心者でできないのですが、これからたくさんやってうまくなりたいと思っています。

でも、勉強もしっかりがんばりたいです。

中学生になって英語が難しくなり、算数が数学になるので一段と大変になると思っています。

なので両立していろいろなことにチャレンジしたいと思います。

 今はあこがれていた学校で勉強して生活できることがとても幸せです。

本当にこの立教英国学院に来てよかったです。

 

(中学部1年新入生 女子)

 

 

 

 

 

  

         

  

 キリスト教では二つの大きなお祭り(祝日)があります。

 一つは「クリスマス 降誕日」で、私たちを救う救い主メシアであるイエスさまの誕生をお祝いする日です。イエスさまは神さまでありながら人間の姿を取りこの世に来られました。これによって人は神さまの救いと恵みを得ることが出来たのです。クリスマスは十二月二十五日と定められています。東方正教会では一月六日です。

他の一つが「イースター 復活日」です。イエスさまは金曜日に反感を持つユダヤ人たちによって十字架に掛けられ亡くなりましたが、三日目に死から復活されました。この日がイースター 復活日で、キリスト教会で最も古く最初に守られた祝日ですが年によって異なります。それはイエスさまの復活がユダヤ教の「過越祭」に当るからです。紀元前1250年、神さまが指導者モーセに命じてイスラエルの民をエジプトの奴隷から解放し、自分の故郷カナンに帰された歴史、苦難からの解放の恵みを記念するお祭りです。この日は「春分の日以降(三月二十一日から四月二十五日の間)の満月の次の日曜日」と定められています。ユダヤ教では安息日(土曜日)が礼拝の日ですが、キリスト教では主イエスさまの復活の日(日曜日)に礼拝の日を変えました。今年の復活日はこの数年では最も遅い四月二十四日になりました。来年は四月八日です。

死人からの復活など在り得るか信じ難いとの議論があります。これは証明することは出来ず、信じる以外ないでしょう。ただ復活の事実が無かったとするならば、これ以後のキリスト教会は在り得なかったと言うことは出来ます。例えば弟子たちの行動を聖書から読んでみましょう。

イエスさまと十二人の弟子たちは、主に活動していた北のガリラヤ地方から、過越祭が近づいたので日曜日に首都エルサレムに入城されました。多くの人びとは勝利を意味する棕櫚の葉を手にして「主の名によってこられる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」と叫んで歓迎しました。それからのイエスさまは毎日神殿の境内で人びとに教えられていました。

一方当時の権力者たち祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスさまを殺そうと謀かっていました。

そして木曜日の夜、イエスさまは弟子たちと最後の晩餐を共に去されました。先ずパンを取り賛美の祈りを唱えて弟子たちに与え、また杯を取り感謝の祈りを唱えて渡され、弟子たちは皆この杯から飲みました。この最後の晩餐が教会の最も尊い礼拝「聖餐式」です。この聖餐が行われるところ、目には見えませんがそこにイエスさまは臨在されているということこそ教会の信仰です。教会はこの聖餐式を二千年の間絶えることなく続けて来ました。

十二弟子の一人ユダの裏切りによりイエスさまは捕らえられ、当時裁判権を持っていた大祭司の屋敷に連れて行かれました。弟子のペトロも群衆の陰に隠れてこの屋敷に入りましたが、三人の人々からイエスと共に居た者だととがめられて、三度もこれを否定しました。当時イスラエルはローマ帝国の植民地でしたので、ローマの総督ピラトが支配していました。彼はローマの法律に照らして、イエスさまを死刑にする何の罪も認められず保釈しようとしましたが、ユダヤ人たちは十字架に掛けろと叫び続け、混乱を恐れたピラトはついにイエスさまに十字架の判決を言い渡しました。そして金曜日の正午から三時までイエスさまを十字架の刑に掛けたのです。これを見守っていたのは母マリアとわずかの婦人信徒だけでした。信徒の一人ヨセフが夕方までにイエスさまを葬りました。

イエスさまを裏切ったユダは自殺しました。あとの十一人の弟子たちはユダヤ人たちを恐れ信徒の家の屋根裏部屋に入り厳重に鍵を掛け隠れていました。そして三日目の日曜日の朝です。婦人たちがイエスさまのお墓を訪ねると墓は空でした。婦人たちは弟子たちにこのことを直ちに報告しました。するとその日の夕方イエスさまは隠れ家の中の弟子たちに自ら姿を現され「あなたがたに平和があるように」と言われました。恐れを抱いていた弟子たちはこの復活のイエスさまに出会い勇気を与えられ自らを恥じました。弟子たちがこの復活されたイエスさまに出会わなかったとしたら、その時点でキリスト教は失われ消え去っていたでしょう。

復活のイエスさまに出会い、弟子たちは何者も恐れなくなりました。直ちにエルサレムの街角に立ち、イエスさまの復活と福音を堂々と説教し始めました。さらに信徒の人々も弟子たちのもとに再び結集し、また沢山の人々が改めてイエスさまの福音に接し信仰に入りました。反対するユダヤ人たちの方が、むしろこれを恐れるようになりました。こうして、北のガリラヤ地方ばかりでなくユダヤ中にイエスさまへの信仰が広まり、さらにパウロ等によりユダヤ人でない異邦人の国々、小アジア(トルコ)、ギリシャ、ローマにキリスト教は伝えられやがては全世界に広まって行ったのです。

イエスさまは二千年前に地上に居られた時のように、今は人の目には見ることは出来ませんが、現在も生き救いの活動を続けておられる、それを証言しているのが新約聖書で、それを証しているのが教会の礼拝、特に聖餐式であると言うことが出来ます。これがキリスト教会の復活の信仰です。

 

 

 

                         

この4月よりロンドン勤務となり4半世紀ぶりに英国の地に足を踏み入れ、イースターホリデーを利用し、懐かしの母校を訪問させて頂きました。
 ひたすら続くA281を走るとようやく現れて来たガソリンスタンドを見て、「もうそろそろ校門が見えて来るはず」と思った通り、昔と変わらぬ堂々とした正門を見て、高校時代にタイムスリップをした気分になりました。
 棟近先生を初め諸先生方にご挨拶をさせて頂いた後、東先生とMrs.奥野(旧姓竹内さんで同じ8期生)に校内を案内して頂き、昔と全く変わっていない面とすっかり変わってしまった面の双方を拝見出来ました。

ただ根本的には、昔自分が高校生活を送っていた頃とベースは一緒であることが確認でき、とても嬉しく感じました。
 私も43歳になりましたが、立教で過ごした3年間は間違いなく一番刺激的で良い思い出が沢山詰まったかけがえのない日々でしたし、ここで培った友情は一生ものです。

これからもOpen Dayを初め、色々な行事の際、母校を訪れたいと思います。

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