読売新聞オンラインに、「中学受験サポート」の特集記事として中学校「総合探究科」の8年(中2)の授業『探究実践』が掲載されました。2学期に実践された「SDGs(持続可能な開発目標)プロジェクト」の授業を実際に取材していただきました。
こちらからご覧ください。
(中学副校長 堀内)
読売新聞オンラインに、「中学受験サポート」の特集記事として中学校「総合探究科」の8年(中2)の授業『探究実践』が掲載されました。2学期に実践された「SDGs(持続可能な開発目標)プロジェクト」の授業を実際に取材していただきました。
こちらからご覧ください。
(中学副校長 堀内)
前回は、私の感じる中学生像を、さらには彼らにこの作品を出会わせたときに生徒の中で起こるであろう授業者としての期待を述べました。それは、この作品の読みをとおして、自分自身の日常の関係意識を対象化するきっかけになりうるのではないかということでした。ただし、これは授業者としての思いであり、これがすなわち授業の目標とはなりません。
授業の目標とはあくまで作品に即してたてられなければならなりません。その目標が達成されたその結果として、上に述べた期待に応えてくれる生徒が出てくるならば、授業者としてこれほど大きな喜びはありません。
そこで授業の目標を次のように立てました。
a 「メロス」「王、ディオニス」の人物像をしっかりとらえる。(メロス=正義、王=邪知暴虐、というだけでは作品を読んだことにはならない。強烈なイメージ語の陰に隠れている「ことば」をしっかりとらえ、表面的ではない深みのある人物像をイメージさせたい。)
b 「語り」の問題を意識させる。
c 巧みな心理描写や人物描写、情景描写のおもしろさを読み、味わう。
d a~cを学習したまとめとして、王(ディオニス)を視点人物とする一人称小説を書く。
② 中学生は初発で『走れメロス』をいかに読んだか?
ここでは、私の投げかけた問いに対して生徒がどのように考え、読みを深めていったか、その一部を紹介したいと思います。
▢あるクラスの初発の感想
【メロスについて】
・“信じられているから走る”というメロスがかっこよかったです。メロスは妹思いで、自分のことより人のことを考える人だなと思った。(Sさん)
・はっきり言って、私はこの話を好きにはなれない。だってメロスは世間知らずだし、きれいごとばっかり言っているし、友だちのことを勝手に人質として決めたのもどうかと思う。私だったら、そんな人のことを勇者だ、なんて認めたくない。(Nさん)
先に紹介した友情をテーマにした短歌を思い出します。相対立した二つの感想として提出されました。もちろん完全に肯定、否定で言いきれる感想だけではありません。
・メロスは人を信じている。友をあんなに信じているなんてメロスもセリヌンティウスもすごい友情、信頼で結ばれているんだなと思った。あと、メロスが3日しかなかったのはわかるけど、妹の花婿さんは困ったと思う。ぶどうの季節に結婚するつもりだったのに急に明日にするなんて無理がある。それと、メロスってすごく強い人なんだなって思う。山賊も倒して、ずっーと走ってる。普通の人だったら山賊に殺されちゃいそうなのに。それでメロスが倒れたときにでてきた水はすごい。そのおかげでメロスはまた走れた。最後にメロスも幸せになれて良かった。(Tさん)
・愛がなんだ?信じることが大事?メロスみたいな人はこの世にいるのか。もし自分がメロスだったら絶対逃げていた。メロスはすごいと思う。けど、人を疑うことはいけないことなのか。こんな世の中で全員を疑わずに信じることは私には出来ない。それが出来るというのならば苦労はない。命乞いしてなぜいけない。(Fさん)
・人間の良い心の部分と悪い心の部分が表現されている。やっぱり、メロスのように正直者でまっすぐな人にも、疑ってしまったり、自分の考えが正しいとうぬぼれてしまったりするところがある。でも、何か一つでも信じられるものがあれば立ち直り、強くなれる。そんな人間の芯の強さを感じた。また、メロスのような正直者が悪い心を持った人間の中の良き心を呼び覚ますことができる!と思った。(Kさん)
【王様について】
・暴君ディオニスが人を信じられないからと人を殺すのはありえないと思った。最後、改心したみたいだったけど、この人がこの後どうなったのか知りたい。(NAさん)
・王様は、本当は自分が信じられる人がほしかったのだと思う。命より信頼とかの方がよかったのかな。王様は寂しかったのだと思う。(Yくん)
・人を信じることが出来ない王の気持ちは一番人間らしい。本当の心なんてそう簡単に知ることが出来ないのだから。人を信じるというのは実は勇気のいることなんだなと思った。(Kくん)
王ディオニスに対する印象が生徒によってさまざまであったのは一つの発見でした。と同時に、人物像を深めていこうという今後の授業に手ごたえを感じた瞬間でした。
【セリヌンティウスについて】
・私はメロスみたいな人はあまりいないと思うし、好きじゃない。逆に好きな人は友人のセリヌンティウスだ。まぁちょっと名前が長いけど、メロスを信じて待ち続けるなんて勇気があると思う。(NAさん)
・私はメロスよりも親友の方がすごい人だと思った。私だったらそんなことを頼まれたら断ると思うけど、その人はメロスが戻らないで自分が殺されるかもしれないという心配をしないで受け入れたことがすごいと思った。(Kさん)
・メロスに身代わりになってくれと頼まれたとき、無言でうなずいたセリヌンティウスに驚きました。友人を信じている、信じ切っているセリヌンティウスがすごいと思った。(Sさん)
【作品全体について】
・イメージの色は赤。すごく情熱的だなーと思う。というより、情熱的すぎて怖いくらい。それにメロスがゲームの主人公に見えてくる。だれかに操られているみたいだし、一定のタイムまでに着かなければタイムオーバー、そこで死んでしまう。物語じゃなくて独り言みたい。本当に気持ちの悪い作品だなーと思った。(Iさん)
・「走れメロス」の語り手が誰なのかわからなかった。「わたしは~」とか始まるところはメロスってわかるんだけれど、「メロスは~」というところと「走れ!メロス」って自分に言い聞かせるセリフが、語り手なのかメロスなのかちょっとわかりにくかった。あと、メロスが最後すっぱだかなのに群衆の人たちが気づかないのはどういうことか、というかいつからすっぱだかにって感じだった。あと最後に「勇者はひどく赤面した」というのは少女にマントを渡されたのが恥ずかしかったからなのか、自分がすっぱだかだったのが恥ずかしかったからなのかわからなかった。それともどっちもか。(Hさん)
・文章のテンポが変わるのが好き。ぱっと見、あまり段落を分けていないようで読みづらそうだが、私はスラスラと読めた。 あの王みたいな人、ふつうにいそう。というか、みんないそう(メロスとかセリヌンティウス)。なんかこういう設定でそういう人たちをたとえている?みたいな気がする。それに、セリヌンティウスの最後の一言が意味深。あと、少女の渡したマントが緋ってとこも。勇者だから?最後、メロスのことを勇者って言ってることに何か関係があるのだろうか。なぞがいっぱいである。(Kさん)
・最後の場面、なんで裸になる必要があるの? 感動で終わってほしかった。(NMさん)
・太宰作品で人間不信の人、割にいるような・・・。(Kさん)
・メロスとセリヌンティウスの友情はとても深くて、すごく信頼しあっていていいな…と思った。でも、この物語は現実的じゃなくて、読んでいるうちに嘘っぽいな、本当にこんなことありえるのかなと思った。こんなに人と人って信頼しあえるのかな…って。友だちのために自分の命をささげることができるのかなって。こんなに良い人はいるのかなって。この本を読むと色々な疑問がでてくる。(Mさん)
・なんかすごい話だなと思った。こんな人はめったにいないと思うし、人質になった人もふつうならいいなんて言わないし、そんなに信じられることってないと思う。逆に人を信じこみすぎて、人にどんどんだまされそうな感じがする。最初、ありえないくらいひどかった王様が、それだけで改心したのも少し疑問だった。それに周りの人も、「王様万歳」って家族殺された人もいるのによく言えるなぁ。王様にも二年の間に何かあったのかもしれないけど……。(KAさん)
・きらいです。おもしろくない。メロスが好きになれない。私は王様の意見と同じ。どうせ正しいこと言ってもむだだと思う。最後のメロスは、みんなが美しいと言っても、私はバカみたいと言う。逃げればいいのに。セリヌンティウスも、どうして頼み事を断らなかったのだろうか……? 裏切られるかもしれないのに自分の命をさしだせません、私は。そんなにすごくもないし、正義なんて何も得られやしないのに。だから私は嫌いです。(KDさん)
・マンガみたい。試練を乗り越えて、結局は仲間になる、とか。いつ書かれたものなのかはわからないけど、こういう内容は今ではたくさんありそう。「走れメロス」の影響なのだろうか。(HIさん)
・人を信じることができない王様が、メロスが約束を守ったことで仲間に入れてほしいというのは、なんだか少しおかしいと思う。だって、今まで誰の言葉も信じず、自分の家族さえも信じられずに殺してしまった王様が、メロスが約束を守ったことだけで心が入れかわり、いい王様になるのは話として少し変だ。確かに、ただの牧人だからこそ絶対に戻って来ないで、友を見捨てると思っていたのに戻ってきたらビックリするけど、それだけで人の心ってそんな簡単に変わるのかな?って思った。(KGさん)
・王が山賊におそわせたのは、もしメロスが帰ってきたときに、友情やきずなを認めたくないからおそわせたのかな。だけど、山賊を倒してまでボロボロになったメロスを見て、心に変化が生まれたのは当たり前なのかもと思った。(Aくん)
・正直、こいつらは聖人君子か!と思った。多分、最も人間らしく、醜いであろう人間の悪の部分が感じられなかった。セリヌンティウスもメロスも互いに一度そんな悪意を感じたが、それ以外は聖人のそれに見えた。こんな人いたら凄いなあ。(MAくん)
・私はこの物語を前に読んだことがある。その時は、あまり面白くない文章だなあと思った。だけど、今回読んでみると前には思わなかったことが感じられた。描写がとてもうまい。その時の状況がとてもよく分かるし、少ししつこいような気もしたけど、メロスの強い意志がとてもよく伝わってきた。現実では、これありえる?と思うところもあったけど、描写の良いところをまねしたいと思った。(MYさん)
・ツッコミ所がやたらとあるコメディ。たとえば、王は「遅れてこい」と言っていたのに王の命令でメロスを殺す山賊がいるのはおかしいだろう。(NNくん)
・私はこんな人間になれるだろうか。友をこんなに信じることができるだろうか。メロスの悪い夢。これはメロスの心の奥に住みついていた不安だと思う。不安はその人も気づかないうちに心の中で芽生え、じわじわと広がる。そして一気にぱっと襲ってくるのだ。人間は不安を作り出し、それによって自滅する。でも、メロスはそれに負けなかった。私はメロスのようにはなれないと思った。あんなに走れないと思った。でも、もしその友が私の大切な友ならば、私は走ると思う。でもそれは、きっとすべてが友のためじゃない。自分のためだ。逃げれば私は一生苦しむ。一生苦しむくらいなら約束を果たし、死んだ方がいい。(Iさん)
一読後の初発の感想にもかかわらず、素朴でありながらも作品のテーマに迫るような読みが出ているのに驚かされます。メロスに対しては当然のことながら肯定派と否定派がいます。物語の世界について嘘っぽいと感じている生徒がいる一方、現実にありうる世界をたとえとして描いているのではないかと感じている生徒もいます。では、なぜそう感じたのか? 国語の授業の中では、文中から根拠を挙げながら説明できることが求められます。そこで、次のような課題から授業を始めました。 (次回に続く)
◇ ほりしぇん副校長の教育談義(24)国語の授業『走れメロス』①なぜ今、『走れメロス』か?
今日は期末試験のテスト返却と解説の日。それと並行して7年生(中1)では各クラス、保護者の茶話会がありました。全員マスク着用で食べ物は置かないという条件で実施されました。この間、対面での保護者会も思うように実施することができず、保護者同士、あるいは保護者と教員の間での懇親の機会がなかなか持てなかっただけに、大変良い機会になりました。
そんな中、あるお父さんが懇親の場を飾ろうと、学校の中に落ちているものを集めてオブジェを作ってくれました。古木のうろに入っているのは先週剪定して落ちていた「イイギリ」の赤い実の房がついた枝、黄色く色づいた「いちょう」の落ち葉、プラタナスの実がついた枯れ枝・・・。
忙しさにかまけて、本来の美しさに気づかずにいる自然の造形、このような形にしていただいたことで改めて秋の深まり、冬の訪れを感じ、思わずシャッターを切ってしまいました。
また、別のクラスの茶話会では、あるお母さんがオーナメントの作り方を伝授。6グループに分かれ、作業をしながらのおしゃべり。写真は6つのパーツを組み合わせて完成した作品です。コロナの感染に最大限の対策をした上での茶話会でしたが、楽しくするためのアイディアは素晴らしいと思います。保護者の皆さんに感謝です。
(副校長 堀内)
11月になると8・9年生(中2・3)は「木工の授業」と「工芸の授業」が入れ替わります。この二つの授業は、1クラスを2つに分け、年度の前期後期で入れ替えることで、少人数で授業を行っています。
この日は、後期の「木工」の授業開きの日でした。
黒板には、「木ってなに?」「〇くへば 鐘が鳴るなり 〇○○」と書いてあります。
哲学的な問いでもあります。さまざまな意見が出てきます。正岡子規の俳句も多くの生徒は知っているようです。そこから、世界最古の木造建築と言われる法隆寺のお話。木がいかに私たちの生活や文化に根付いているかという方向に話題が広がっていきます。
「では、学校の中にある木について、見ていこう」
外に出ると、目の前にあるのはプラタナスの大木。和名「すずかけの木」の名の通り、房の形をした実がたくさん実っています。夏でも強い日差しが遮られ、風が良く通る憩いの場所です。
小学校校舎の方向に進むとそこにあったのは、「サルスベリ」。今は花の時期ではありませんが、「猿もすべって登れない」と言われるつるつるの幹が特徴です。
グラウンド隅にあるいちょうの大木です。11月に撮った写真で、葉は青々としていますが、今(12月中旬)は、黄色の葉が風で舞い、根元にたくさん降り積もっています。もう一本の黄葉した大木は、中学校校舎前にある͡コナララの木(12月中旬撮影)。11月には、たくさんのドングリを落としていました。
もう一本の黄葉した大木は、中学校校舎前にある͡コナラの木(12月中旬撮影)。11月には、たくさんのドングリを落としていました。
(副校長 堀内)
これまで、中学生という時期を生きる上で大切だと思うことについて述べてきました。具体的なエピソードとしていくつかの教科外の取り組みについても紹介しました。しかし、学校において中心を占めているのは教科の授業です。この授業においてこそ、ここまで述べてきたことを実現していこうという意思がなければ、まさに木を竹に接ぐことになってしまいます。ただ、このことこそが教員にとって最も厳しいことなのです。
各教科には、学年ごとに達成すべき目標があり、学習内容があります。その中にはペーパーテストで測れるものもあれば、そうでないものもあります。もちろん定期テストの成績は大切です。しかし、その先に、彼らの卒業後の長い人生においてこれらの学びがどのような意味を持つのかを考えることが学校における授業者の責任であるように思うのです。
まず初めに国語の教員としての私の実践を紹介させていただきます。
(中学校副校長 堀内雅人)
1 『走れメロス』(太宰治)を再話する<中2‐2学期の実践>
①なぜ今、『走れメロス』か?
数年前のことです。2学期になってすぐのころ、生徒に短歌を創作させる機会を持ちました。「学校生活」や「家族」、「自分」を見つめる歌が数多くできあがったのですが、そんな中でも「友・友情」を詠んだものがめだちました。
「感謝したい 普段は言えぬこの気持ち みんなに言います いつもありがと」
「友だちと笑い合ってるこの時間 止まってほしいと思う毎日」
「友だちとたくさん泣いて笑いあう ずっと大好き タカラモノだよ」
一方、こんな歌もありました。
「うらのかお 見てはいけないうらのかお 今もしかして見ちゃったのかな?」
「あるおんな ホントはすごくきらいなの だけどもなぜかしゃべってしまう」
前者の歌を詠んだ生徒たちが友だち関係をうまく作れていて、一方後者の歌を詠んだ生徒たちはその問題で悩んでいる、そんな単純なものではありません。確かに悩んでいるのでしょう。しかし私は、後者の歌の方に魅力を感じます。そこには表面的ではない人間と人間の関係を築くきっかけが含まれているように思うからです。
たぶんどの生徒にとっても「友だち」というのは、一番の問題であり、大きな悩みなのでしょう。たまたま今、うまくいっている。これが永遠に続いてほしいと願う。それでいて、いつ壊れるかもしれないという不安、過去の傷、それらが自分の中でうまく消化しきれずにたまっていく。何とかしたい。いやなものには目をつぶりたい。でも、ふと感じてしまう。必死に友情の大切さ、ありがたさを自分に言い聞かせてみる。自分にとってかけがえのないものだけど、不安の種であり、元凶にもなるもの。傷つきたくない。小さな世界で安心していたい。同じ悩みを抱えながら、あらわれ方は正反対。それでいて、互いに語り合うことができない現実。ますます自分の中に未消化のままたまっていくのでしょう。
できあがった短歌には、生徒のそんな様子が素直にあらわれています。私にはそう感じられました。根底は同じです。ただ、それが表現されるときに極端な形であらわれているだけなのです。けっして相反する感情の発露ではない。どちらも友情を求めている。「友だちなんて信じられない」「私は一人でいい」、しばしば耳にするこんな言葉には、人一倍「人を信じたい」「何でも話せる信頼できる友達が欲しい」という気持ちが隠れているはずなのです。
それが中学生時代なのだと思います。一人ひとり、真剣に悩み、格闘している。だけど、そこにとどまっていてよいとは私は思いません。心の内側では明と暗、そのどちらも抱えているにもかかわらず、それが外にあらわれる時、両極となってでてきてしまう。実際の教室では、ときに異なるタイプとしてグループとグループの間で、あるいは個と個の間できしみを生みます。何とかその両者を結びつけたい。いや、その前に正面から向き合わせたい。結びつけるのは「言葉」です。切り離すのもまた「言葉」です。では、どんな言葉が必要なのでしょうか。生徒と接しながら、あるいはどんな文学作品を授業で扱うかを考えるとき、頭をよぎることです。自分とは異質だと思っていた人間の中に、自分と相通じるものがあると感じること、それは自分の中にあるもう一人の自分を受け入れることに他なりません。まさに、中学2年生とは、子どもから大人へと変化する象徴的な時期なのだと改めて感じます。
さて、太宰治の『走れメロス』ですが、とりもなおさず中学2年生の定番教材です。ただ私は長い間、この教材を扱ってはきませんでした。何度か教材研究はしてみたものの、直前になって躊躇していました。教科書教材としては長編です。扱うには勇気がいります。果たして生徒はこの作品をどう読むのでしょうか。小学生の高学年なら、一つのメルヘンとして楽しく、あるいは感動しながら読んでくれそうな気もします。中学2年生でもハッピーエンドの作品を望む生徒は多くいます。ただ、「こんな人、現実にはいないんじゃないのか?」「現実はそんなかんたんじゃないよ!」という声があった時、どういう授業になるのでしょうか。「そうだね!」で終わらせるのでは、この作品を読む意味はありません。それでいて「信実と友情は何よりも大切だ」「人を信じることこそ勇気ある行動だ」こういう言葉が空回りしてしまうのではないかという危惧もありました。にもかかわらず、目の前の生徒を見ながらこの作品を通し、何も考えず、照れずに「人を信じたい!友だちは大切だ!」と叫ばせてあげたい、そんな衝動があったのも事実です。つまり、私にとっていつも引っかかる作品であったわけです。
しかし、国語科の校内研究会での同僚の発言が挑戦するきっかけを作ってくれました。「この作品、王様に語らせたら面白いんじゃないか?」 王、ディオニスは「邪知暴虐」「奸佞邪知」といったことばで語られる暴君です。一見、感情移入しづらい人物のように見えますが、その反面もっとも人間らしい人物でもあります。人を信じたいけれども、信じられない。自分の最も信頼すべき近い人間から処刑せざるを得ない孤独感。いったいこの2年の間に何が王の周りで起こったのでしょうか。友だちに裏切られ、傷つき、あるいは逆に結果としてだれかを裏切るような形になってしまった経験の一つや二つ、どの生徒にもあることでしょう。人をそして自分を信じられなくなったことのある生徒も少なくないはずです。視点を変えて作品を読み直すとき、王ディオニスは我々にとって最もリアリティーを持った人物として浮かび上がってくるのではないでしょうか。はたして、王の本心はどんなだったのでしょう。王としての威厳を保たねばならない裏で、何を感じていたのでしょう。この問いかけは、現実の中学2年生の心に何か波紋を広げさせてくれるような気がしました。
それまで中1の教材である『少年の日の思い出』(ヘルマン・ヘッセ)では、語り手を「ぼく」から「エーミール」へ変換させ、エーミールの一人称小説として作品の後半部分を書きなおしてみるという作業をしています。主観だけでものを視ることに慣れきってしまっている彼ら(たぶんそれが子どもの特性のひとつであると思う)にとって、語り手である「ぼく」をつきはなし、別の人物の視点から物語を創りなおすという活動は、実際理解しづらいことのようでもありました。ただ、いったんそれを了解した彼らはこちらの想定以上に筆がすすんでいきました。たぶんそこには、作品の構造上の枠が確固として現前しているという安心感の中で自由に自分の想像を描ける喜び、さらにはヘッセの文体をまねることのおもしろさがあったように思うのです。
その手法を『走れメロス』において、試してみようと思ったのです。王のもう一つの顔を知ることはメロスのもう一つの顔を知ることでもあります。いや、二つの顔があるのではない。それはコインの裏表であり、両方あって存在するものです。両方あってメロスであり、ディオニスであるはずです。作品を読み深めていくうちに、両極端な人物として登場したこの二人の相違点だけではなく、共通点が見えてくるのではないでしょうか。
この再話の作業は多くの熱中する生徒を生み出し、中には年度を超え書き続けている生徒も現れました。評定を気にしてのことでは全くない、純粋に面白かったのだと思います。私も一つの読みに執着せず、生徒とともに教室空間での共同の読みを楽しめました。 (次週に続く)
グラウンドのいちょうの木がきれいに色づいています。秋から冬への季節の移り変わりを感じます。樹木の周りはまるで黄色いじゅうたんのようです。しかし、この季節、舞い落ちた大量の落ち葉が遠くまで散らばっていきます。
用務員さん方は、キャンパス内だけではなく朝早くから学校の周りの路地に広がった落ち葉を掃いてくれています。
中学生は、明日から期末試験が始まるという時期ですが、今日の朝のグラウンドには用務員さんに交じって小学生と先生方が落ち葉集めのお手伝いをしていました。いちょうの黄葉もきれいですが、美しい朝の風景を見ることができ、思わずシャッターを押してしまいました。 (副校長 堀内)
日々感じる中学生の姿、中学校での学びについて考える連載〖ほりしぇん副校長の教育談義〗(毎週土曜日配信)第23話は、「『学校をもっと開かれた場所に』③-「してみる計画~卒業研究のためのフィールドワーク」です。
学びを教室の中だけに限定せず、外へと目を向けたとき、そこには多様な学びの機会があることに気づきます。しかし、待っているだけではそのようなチャンスには出会えません。どのような仕掛けを作るか、どのような協力体制を作っていくかが学校に求められます。
(中学校副校長 堀内)
本校では1996年度より中学3年生に1年間をかけた『卒業研究』を実施しています。テーマ選びこそがこの取りくみの要です。それが自分の本当に関心のあること、自分が心から好きなことであってほしいと願っています。そのためには自分自身と向き合うことが求められます。与えられるのを待っているだけでそれはみつかりません。「自立・自律」への第一歩です。ただの「良い子」ではいられません。
でも、それはとても勇気のいることです。正解がはっきり見える世界ではないからです。研究に失敗はつきものです。失敗を恐れては何もできません。まずは行動してみる。自ら働きかけ、社会とかかわってみる。そしてそれがどんなに楽しいことなのかを感じてもらいたい。そんな願いを込めて我々教員は、卒研保護者ボランティアの皆さんとともに彼らをサポートしています。
彼らには具体的な研究活動としてフィールドワークを求めます。私たちはその計画を「してみる計画(卒業研究に向けてのフィールドワーク)」と名づけました。関連施設を訪問したり、専門家や識者の方へ取材させていただくこともあります。生徒自身が集めた情報を研究のもとにすることで、中学生ならではのオリジナリティのある研究になっていきます。そんな「してみる計画」のいくつかを紹介します。(2019年度卒業生より)
◇テーマ:井の頭公園のモグラ塚の分布
*通学路の井の頭公園で、モグラが穴を掘ったであろう跡をいくつも発見、モグラを身近なものと気づいた瞬間、水が湧くようにモグラのことを知りたくなった。
<してみる計画>
・井の頭公園のモグラ塚を観察、目立った生息域を記録、「井の頭公園のモグラの分布図」を作成
・多摩動物公園「モグラの家」を訪れる
◇テーマ:オカダンゴムシの交替性転向反応の決定に関する感覚器官の影響
*幼いころから虫が大好きで、見つけた虫をずーっと見ていたり、暇があれば探しに行ったりしていた。そんな中、ダンゴムシを迷路に入れるとジグザグに進むということを知り、その不思議さがテーマにするきっかけとなった。
<してみる計画>
・自分の家の庭の落ち葉の下にいたオカダンゴムシを10匹捕獲。工作用紙を使い、コーナーが4回、角度が90度、幅、高さはそれぞれ1センチメートル、直線の長さは5センチメートルの通路を制作、スタート位置から歩かせる実験をした。一匹当たり10回、合計100回の試行を行い、対照実験とした。
・対照実験からいくつかの仮説を立て、さらに実験でそれを検証していった。
◇テーマ:神戸毅裕による神戸毅裕のためのオリジナル走法
*陸上競技、特にスプリント競技において体格の差が記録に及ぼす影響は大きい。欧米人と同じ一軸走法で日本人が世界で活躍することは難しいといわれ、高野が欧米人との対格差を埋めるために発案した二軸走法を末續が使用、2003年世界陸上200mで銅メダルを獲得した。私は末續と同じ動きをすれば速く走れると考え、末續の走りを模倣したがタイムは短縮しない。そんな時、山縣の「個々人では筋肉のつき方や骨の成長速度などが異なるため、自分のオリジナルを見つけなければいけない」という言葉に出会う。自分のオリジナル走法について仮説を立ててみた。
<してみる計画>
・二軸走法のメリットとデメリットを分析、自分に合った練習方法を考え、7月30日~11月20日の期間、毎日データを記録し、分析。「ジュニアオリンピック予選会」「支部対抗陸上」等の大会の記録の伸びを見る。
・筑波大学の高野進さん(元オリンピック選手)に相談し、アドバイスをもらう。
◇テーマ:公園と子ども―子供が自由に遊べるようにするためには―
*小学校4年生の時、放課後に友達と楽しく遊んでいた大好きな公園。しかし、ある日、学校の先生がやってきて「公園の近くに住んでいる人から、子どもたちが騒いでいてうるさいという通報があった」と注意された。その時、公園で静かに遊べなんておかしいという怒りが今でも残っていて、それがこのテーマにした理由である。
<してみる計画>
・国分寺市の町中にある小さな公園のルールが書いてある立札の写真を撮りまくり、理不尽だと思うルールを見つけ、なぜこのようなルールを作っているのか仮説を立てる。
・市役所の緑と建築課に行き、疑問を聞いてみる。また、母校の小学校の先生の所に行き、インタビューする。
・教育評論家の尾木直樹先生とお話しできる機会を作っていただき、質問してみた。子どもを地域みんなで支えあい育てていく「地域の子供」と考えていないという視点、もう一つは子育て時代に育児にほとんど関わっていない中年男性は子供の声が生理的にカンに触るといった、今まで考えていなかったような視点に出会う。
・さらに、明星大学デザイン学部教授の萩原先生にお会いし、同世代のつながりをつくるイベントの試みやその苦労など、新たな観点をいただいた。
◇テーマ:なぜ日本人から着物離れが進んでいるのか
*中学2年生の秋に出会った『源氏物語』。そこで興味を持ったのが詳しく描写されている装束の説明。そこでふと思った。平安時代、多くの人にとって当たり前の物だった装束や着物が、なぜ現代を生きる私からは遠い存在になってしまっているのか、そんな疑問が私の頭に浮かんだ。
・仮説を立て、検証するために夏休みの2週間、浴衣を着て生活し、様々な文献にあたりながら考察を深めた。
・「江戸東京たてもの園」を見学、仮説を検証するために、日本の家が和風から和洋折衷の家に変わっていく過程を調べた。その際、ガイドさんの説明も参考になった。
・大妻女子大家政学部の中川先生(本校卒業生)に論文完成まで相談にのっていただく。
☆ 参考:『中3の卒業研究~戸惑うほど自由なテーマ選び』(読売「中学受験サポート」取材記事)
☆ 参考:『「出会い」を通して個性を開花させる卒業研究』(読売「中学受験サポート」取材記事)
★ 次回からは、中学校の国語の授業についてお話ししたいと思います。
日々感じる中学生の姿、中学校での学びについて考える連載〖ほりしぇん副校長の教育談義〗(毎週土曜日配信)第22話は、「『学校をもっと開かれた場所に』②-特別授業:この人に会いたい」です。
昨年度・今年度とコロナ禍の中、外から特別講師を招くことがとても難しかったのですが、先日『キリン解剖記』(ナツメ社)の著者である郡司芽久さんを講師としてお迎えすることができました。今回のブログでは、教科の授業だけではなく、特別授業「この人に会いたい」をなぜ大切にしているのかお話ししたいと思います。
(中学校副校長 堀内雅人)
明星学園中学校では、社会の一線で活躍する「おとな」をお招きし、特別授業『この人に会いたい』を実施しています。学校がカリキュラムとして決めている企画ではありません。学年の教員や生徒から出てきた声が実現していきます。
「一般の講演会依頼ならお断りしているんです。でも、中学生に求められたのではお断りできません。」笑顔でそう言ってくださった方がいらっしゃいました。「大人相手の講演なら慣れているのですが、中学生に話をするのは初めてなんです。」不安そうな面持ちで来校された方もいらっしゃいました。
そこでは、講師の先生の人生が、貴重な経験が、ご専門の学問が語られます。その方にしかできないお話です。生徒は夢中になって聞いています。どこまで理解できているのかは正直分かりません。しかし、何かが伝わっているのを感じます。
講師の先生に共通しているのは、自分にできることを見つけ、自分の個性を誰かのために活かそうとしている姿です。ただ、ご自身のやるべきことを見つけるきっかけは、けして幸福な出来事だったとは限りません。広島で被爆したこと。中学校時代に立て続けに家族を失ったこと。チェルノブイリの原発事故の影響で甲状腺がんに苦しんでいる子どもたちの映像を見たこと。
生徒たちには、自分の夢を見つけてほしいと思っています。自分の人生を歩んでほしいと願っています。しかし、自分の思い通りにすべてがいくことなどありません。この先大きな挫折も経験するでしょう。その挫折からどう立ち直るか、いや挫折をばねにどう前へ進むことができるか。それが生きる力だと思うのです。だからこそ、中学生時代にたくさんの本物の大人に出会ってほしいのです。
講師の先生のお話の中には常に中学生への温かなメッセージが込められています。そこに共通するのは、「自分自身で感じ、自分の頭で考えてみよう。」さらに、「考えているだけではなくて、行動してみよう」ということなのだと思います。「たとえ当初の思い通りにはいかなかったとしても、行動してみることで思いもしなかった展開が生まれてくる、思いもしなかった宝を発見することができるよ」ということです。このような言葉は、中学生だけでなく我々にも勇気を与えてくれます。
授業の後、しばしば講師の先生からこんな感想をいただきます。「生徒の質問にドキッとさせられました。一見幼そうに見えて本質的なことを聞きますね。大人の講演会では、どのような質問が出るのか大体想定できるんです。明星学園の中学生はちがいますね。とても面白かったです。」明星学園の教員であることを誇らしく思える瞬間です。と同時に日頃から、本当に本質を見極める力をつける実践ができているのか、改めて身が引き締まる瞬間でもあります。
ここ数年でお呼びしたのは、次のような方々です。安田菜津紀さん(フォトジャーナリスト)『写真で伝える仕事』、菅谷昭さん(元医師、現松本市長)『21世紀を生きる君たちへの期待』、アーサー・ビナードさん(詩人)『そこに込められていた深い意味』、ダグラス・ラミスさん(政治学者)『世界で今起きていること』、小谷孝子さん(被爆体験証言者)『被爆者の声を聴く』、佐藤和孝さん(ジャーナリスト)『信念をもって仕事をするということ』、三輪悟さん(上智大学アジア人材養成センター)『カンボジアの世界遺産―アンコール遺跡群を護る』、保立道久さん(東京大学史料編纂所名誉教授)『地震火山列島の歴史を考える』、馬場龍一郎さん(カメラマン)『なぜ人は人の写真を撮るんだろう』、畑口勇人さん(浅川伯教・巧兄弟資料館学芸員)『浅川巧の生き方―「共に生きる感覚」とはなにか―』、池上彰さん(ジャーナリスト)『政治入門』・・・
身近な先輩として本校の卒業生にもお願いし、自分の小中学校時代の話、今の仕事(研究)、なぜその仕事をするようになったのか、在校生に伝えたいことなどを語ってもらいます。ジャンルは以下のように様々です。沙央くらまさん(元宝塚歌劇団)『夢を叶える』、柳亭小痴楽さん(落語家)『落語入門』、田島夏子さん(京都大学野生動物センター)『私のイルカ研究』、高橋佑磨さん(千葉大助教)『明星とわたし―何がどうなって研究者になったのか―』・・・
もちろん、学校での学びの中心は日々の授業です。特別授業だけで学校は成り立ちません。しかしここで大切なのは、特別授業を企画することが、けして教科の授業を軽んじていることにはならないということです。むしろなぜ勉強しなければならないかという本質的な問いに向き合うための示唆を多くの生徒は与えてもらっているように感じるのです。今悩んだり葛藤していることが、どのように将来につながっていくのか、そのために何が必要なのか一歩を踏み出す勇気をもらっているように思うのです。
先日、大学受験を前にした高3生が中学の職員室にやってきて、目を輝かせながら自分の夢を語ってくれました。夢がたくさんあってまだ絞り切れていないのが悩みのようでした。それでも最後、「後輩の中学生に『この人に会いたい』で自分を語れるような人になりたい。」そう言って帰っていきました。このような何気ない瞬間に大きな喜びを感じる今日この頃です。
本校(小中学校)では毎年11月に公開研究会を実施しています。創立以来カリキュラムや教材を開発する学校として独善的にならないよう、広く授業を公開し、多くの先生方とともに学ばせていただく機会を持っております。
しかしこのコロナ禍の中、昨年は中止を余儀なくされましたが、今年は11月21日(日)完全オンラインという形で実現することができました。午前中の全体会の後、午後からは、提案教科が教室を拠点とし、Zoomでつながる分科会を持つことになっています。
教科の分科会は、お申込みいただいた全国の先生方との研究会となりますが、全体会の特別講演については広くご視聴いただければと思い、お知らせさせていただきます。
全体会の特別講演は、『13歳からのアート思考』の著者である末永幸歩さん。お話をうかがう中でこれまで勝手に思い込んでいた芸術に対する距離を縮めてもらえたような気がいたします。だれもが子どもの時に持っていた感性、気づきが13歳を境に失われてしまうという社会の在り方についても考えさせられます。
第2部では、堀内(中学校副校長)、照井(小学校副校長)、吉野(中学校美術家)が加わってのシンポジウム。緊張感が前面に出てしまっていてお恥ずかしい限りですが、末永さんに別の切り口で質問させていただきました。
また、シンポジウムの後に7年生(中1)の「哲学対話」の授業風景を入れさせていただきました。対話のテーマが偶然ですが、末永さんのテーマと重なる部分もあり、面白いなと思いました。
大変長い動画ですが、ご覧いただければと思います。
*動画は11月28日(日)18時までの限定公開となっています。
【前編】特別講演 末永幸歩氏 (美術教師・アーティスト・『13歳からのアート思考』著者)
「自分だけの『問い』や『答え』が生まれる場」 ⇒ こちらから
【後編】シンポジウム(末永氏・堀内・照井・吉野) ⇒ こちらから
※最後に7-2の哲学対話の授業風景あり。
(中学校 副校長 堀内雅人)
日々感じる中学生の姿、中学校での学びについて考える連載〖ほりしぇん副校長の教育談義〗(毎週土曜日配信)第21話は、前回に引き続き「『学校をもっと開かれた場所に』①-民家泊」(その2)です。
昨年度、中止を余儀なくされた沖縄民家泊ですが、先週お送りしたブログで報告させていただいたように、無事実施することができました。生徒からは楽しかった思い出を聞かせてもらっています。彼らの表情を見るにつけ、どこか成長した印象を感じたのは私だけではなかったようです。
今日のブログでは、そんな民家泊への思いをお伝えできればと思います。
(中学校副校長 堀内雅人)
修学旅行での民家泊の取り組みは、学校と村とで率直に意見交換をしあい、行事を作り上げていく作業でもありました。特に、その後長くお付き合いさせていただいた伊江島の方々とは、我々教員も親戚のようなお付き合いをさせていただいています。PTAバザーでは、島の方に学校まで来ていただいて、沖縄の物産を販売していただくこともありました。
民家泊が軌道に乗り出した2008年、修学旅行の責任者となった私は、しおりの巻頭文として生徒に次のようにメッセージを送りました。
≪沖縄の修学旅行というと、「平和学習」ということがよく言われる。誤解を恐れずに言えば、昔からそのことになにかしら違和感があった。もちろん平和に対してではない。平和であることを本当の意味で希求するとき、たった数時間の事前学習や修学旅行用に設定された体験や見学で「平和」「戦争」といったものを一つの物語としてまとめてしまうことに、ある躊躇があったのだ。とはいえ、何も知らないことは、それ以上にこわいことだ。
初めて私が沖縄の民家を訪れ、村のおじいやおばあ、私と同年代の人たち数人とテーブルを囲み、話に興じたときの熱気は今でも忘れられない。その後も、東村や伊江島の民家に何度かお世話になった。「戦争中のこと」、村の中でも気を遣って話さなければならない「基地問題」、「団塊の世代とその上の世代との価値観のずれ」、「アメリカ人への思い」、「戦後、自分たちのできなかったこと」、「若い世代への期待と連帯」、「村が自立し、活性化するために」。どれもが深い話だった。現実と理想。けして簡単には答えの出ないようなものばかりだった。それでいて、前向きな明るさがあった。
子どもたちには、たとえ平和を求めるためであっても、安易な物語は与えたくない。安易なわかりやすい物語は、何かの拍子に簡単に反転してしまう。それよりも、すぐに答えは見つからなくとも、たとえ違和感しかそのとき感じなかったとしても、深く考えるためのきっかけをつかめるような出会いの場をつくってあげたい。
はかり知れない戦災を経験した伊江島の民家泊で、彼らはどんな時間を過ごすことになるのだろう。わからないことがあったら、素直に聞いてみることだ。知ったかぶりや、分かった気にならず、そこから考え始めればいいのだと思う。
数年前、『深呼吸の必要』という映画を見た。沖縄の広大なサトウキビ畑を舞台に、それぞれの“言いたくない事情”を抱えて集まってきた7人の若者たちの35日間を描いた物語である。彼らは、季節限定の“きびかり隊”としてやって来るわけだが、想像を絶する陽射しと過酷な単純作業に次第に挫折していく。しかし、島のおばあの素朴さや大自然の中での共同作業を通じて、人としてのかけがえのない何かをつかんでいく。
誰もが楽しめるような種類の映画ではない。大がかりな演出も、ドラマチックな音楽も皆無といって等しい。しかし、私にとってそれは不思議な魅力のある映画だった。最近、沖縄の代名詞のように使われる「癒し」や「ロハス」といった流行の言葉とは対極のものを感じた。彼らは沖縄という「他者」と出会うことで、今まで目をそむけてきた自分自身と、今まで逃げてきた現実の問題としだいに向き合おうとし始める。
この学年では、「他者との出会い」ということを言い続けてきた。「授業の中での学び合い」、「奥阿賀民家泊」、学園初の試みとなった「職場体験」。「卒論の取り組み」もその延長線上にある。国語の授業でも、「他者」や「人間関係」を扱った文章を多く取り上げてきた。「他者」と出会い、「自己」を発見する。かんたんなことではない。しかし、その困難さを実感し、素直に認められることこそがもしかしたら大切なのかもしれない。とは言え、避けて通れない悩みを抱えつつも、一人一人、ここまで着実に成長してきた。そしてこの沖縄修学旅行である。今までの学校行事で一番楽しかったといえる行事にしてほしいと思う。与えられるのを待つのではなく、自ら行動し、楽しさを見つけてほしい。きっと今までの経験が生きてくるだろう。
2学期に入ると、9年生として大きな責任のかかる運動会が待っている。中学校の卒業へ向け、各教科で与えられるハードルを越えていかなければならない。卒業制作や発表会もある。全員の論文の載った卒業論文集も完成させる。それらに全力で取り組むことで素晴らしい卒業式になるのだと思う。そのためにもこの修学旅行で学年としての、さらなるまとまりを。また、きれいごとではない互いの絆を深めてほしいと願っている。
ともあれ、沖縄の海は美しい。食文化も独特なものがある。大いに楽しみたい。そのためにも、エチケットやルールを守り、大人としてのふるまいをしよう。自らをコントロールできる者こそが大きな自由を自分のものにすることができる。楽しさと危険とは紙一重である。集団生活である。十分な注意と人に対する配慮を忘れないでほしい。きっとそれは、何倍もの心地よさとなって自分に返ってくるに違いない。≫
巻頭言(『修学旅行のしおり』より)
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