ぼくは、芥川龍之介の「鼻」という話を読みました。この話の登場人物は、内供、(侍)などです。登場人物は少ないですが、読むと自分の性格をふり返ることのできる、おもしろい話です。

 

 内供の性格は、生れながら鼻が長くなってしまった自分の鼻を短くしたいと気にする性格です。
 内供は、鼻のことを一番気にしていました。人から笑われるのがいやだったからです。自分の鼻を小さくすることをいろいろしました。
 鏡で自分の鼻の見え方を研究したり、いろんな本を読んだりしました。また、烏瓜を煎じて飲んだり、鼠のおしっこを鼻へぬったりしました。
 それもこれも、鼻を小さくして、人から笑われないようにするための努力です。

 

 ぼくも、実は、人から笑われることが、すごく気になる性格です。多くの人の前で話しをすることや、初めてのスポーツをすることや、音楽の時間になれていない楽器をえんそうすることがとても苦手です。それは、みんなに失敗したときに、笑われるのがとてもこわいからです。

 

 お話の中にあったように、内供もぼくも、自尊心が余りに強くデリケートに出来ているからだと思います。
 でも、初心者の人に失敗はつきものです。内供の鼻はかんたんに短くはなりませんでしたが、ぼくのなやみは、いっぱい失敗をして、練習をすることで、解決ができると思います。人前で話すことも、スポーツをすることも、楽器をえんそうすることも何度も何度もくりかえし練習することで自信がつき、上手になってくると思います。ぼくは絵を描くことと習字が得意ですが、これもたくさんの練習をしてたくさん失敗もしたことで得意になったことに気づきました。人は、誰でも、最初は失敗するものです。失敗をこわがらないで、失敗することが勉強になることだと思いました。内供も鼻が短くなって、それに気付いたのかもしれません。

 

 最後に内供の鼻は、元にもどってしまいましたが、ぼくの努力は元にもどることはありません。イギリスで、新しい生活が始まります。いろいろな努力をするぼくは、多くの失敗をすると思いますけれど、はずかしがらずにいろんなことにチャレンジしたいと思います。この話の最後のように、「こうなれば、もう誰も笑うものはいないにちがいない。」です!!

 

(小学部5年生 男子)

 

「檸檬」という題名を見て、まず僕の頭に浮かんできたのは、あの「黄色い果物」という以外には何もなかった。どのような話が描かれているのか、想像するのさえ難しかった。最初の数行を読んでみただけで、あまり自分好みではないと感じた。なぜなら、僕と作者との世界観が全く違うし、普段僕が読んでいる小説のような爽快さやおもしろさがこの作品には全くと言ってよいほどないからだ。

 

 主人公の私は病気が進行するのに従って、物の見方が変わってきていると僕は思う。昔、大好きだった場所や物がだんだん憂鬱になっていき、重苦しい場所に変わってくる。僕にも似たようなことはあった。ドイツに来たばかりの頃は大好きだったスーパーマーケットが今では面倒な場所になってきた。だけど僕の場合は、年齢に伴って親について買い物に行くよりは、その時間を自分のために自由に使いたくなったからであって、作者のように病によって生活が蝕まれて物の見方が変わってしまったわけではない。作者の大好きだったものが重苦しいものになる悲しみや苦しみは、健康な僕には到底理解することができない。

 

 この作品を読み進んで、僕が一番印象に残っているのは、作者が久しぶりに入った丸善で、バラバラとめくった本を積み重ね、その上に檸檬を置いて店から出て行ってしまう場面だ。僕がその中でも特に印象に残っている一節は「私にまた先程の軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当たり次第に積みあげ、また慌しく潰し、また慌しく築きあげた。」だ。僕も似たようなことを衝動的にしたいと思ったことがある。例えばスーパーマーケットで、お菓子の箱を全て棚から出して大きな家を作ってみたらどうだろう。本屋のマンガコーナーで一巻から最終巻までの並び順を全く逆にしたら、次にそのコーナーに立ち寄った人はどう感じるだろうか。想像するたびに体中がゾクゾクしてきた記憶である。ついつい手が伸びそうになるのを僕の理性が必死になってくいとめている。「近くに自分の知り合いがいたらどうしよう。」「店の人に怒られるのではないだろうか。」僕の中の臆病な部分がこのようないたずらをしたいという気持ちに勝るのだ。だから僕は疑問に思う。なぜ、作者は思ったことを実際に行動に移せたのだろうか。また、この時には周りに店員又はお客がいなかったのだろうか。もし、僕がこの作者のような行動をしている人を見かけたら、迷わず注意するか、店員に知らせていただろう。だから僕は不思議でならない。なぜ誰も主人公をとがめなかったのだろう。気がついた人はいなかったのだろうか。もしかしたら、主人公には自分以外の世界が全く見えていなかったのかもしれない。ここに続きは描かれていないが、この後、主人公は丸善のこの現場に戻って来たのではないかと思う。僕なら間違いなくそうしたと思う。

 

 主人公が、檸檬を手にとったことにより、今までの不吉な塊が少しずつやわらいでいき、幸福な気持ちになったように「檸檬」には不思議な力があるのではないかと思う。高村光太郎の詩集「智恵子抄」の中の一つ「レモン哀歌」の中に
「その数滴の天のものなるレモンの汁は
 ぱつとあなたの意識を正常にした
 あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
 わたしの手を握るあなたの力の健康さよ」
とある。智恵子が檸檬を噛んだときに、彼女が一瞬でも意識を取り戻し、元の元気だった頃の智恵子に戻ったと思う。檸檬のさわやかさ、水々しさ、そのすっぱさが「不吉なもの、もやもやしたものを吹き飛ばしてくれる。」「その人に生気を取り戻させてくれる。」そんな力があるのかもしれない。梶井基次郎も檸檬の不思議な力を感じ、勇気がでて、また、幸福な気持ちになることができたのだと思う。

 

 正直僕はこの感想文を書くのにとても苦労している。とても美味しそうに檸檬を食べている妹と母を見ていると、うとましくさえ思う。さわやかなはずなのにと黄色い物体に文句を言いたくなるが、言っても何か答えてくれるわけでもないので何か言うことはない。しかし、あと少しで書き終えたら、僕はとてもさわやかな気持ちで檸檬を食べたいと思う。

 

(高等部1年生 男子)

 

平成24年度、立教英国学院は創立40周年を迎えた。今日、僕はそれを記念するためのコンサートに声楽四重唱と聖歌隊という演目で参加した。どちらもすごく緊張したが、特に思い入れのあるのは四重唱の方だ。理由は、四重唱はその名の通り四人で歌うことであるが、誰もができることではないからである。そもそもこのグループができたのは、去年の2学期に聖歌隊で歌ったクリスマスキャロルがきっかけである。たまたまその歌には、各パート1人ずつの4人で歌う場所があり、そこで今の4人が選ばれたのである。本格的に活動を始めたのは3学期から。時に厳しく、時に楽しい、とても充実した練習だった。当初の目的は、1学期のスクールコンサートだった。しかし40周年記念礼拝、2学期のオープンデーのコンサートと次第に何度も歌うようになり、最終的には今回の記念コンサートでも歌うことになった。

 

当日演奏した場所は、ロンドンにあるセント・ジョンズ・スミス・スクエアという普段プロの演奏者も使用している格式高いホールだった。午後3時、ついにコンサート開始。僕たち四重唱の出番は4番目なので、1番目の演奏は控え室に配置されているテレビで見た。もうその時から僕の心臓は、今までにないくらいの勢いで鳴っていた。

 

控え室からステージまでの道のりは、緊張のせいで足取りが重く、幕の袖に着いた時には足が震えていた。最後に深呼吸をし、ステージの中心に立った。思ったより、客席との距離が近い。僕は動揺した。横目で隣に立っている3人を見ると、みんな緊張していたが、少しは余裕を持っている。伴奏が流れ、歌い始める。声は良かった、だがやはり足が震えていた。本番でステージ上だというのに震えがとまらなかった。幸いにも声に支障がなかったのは良かったが、後で話を聞くとやはり客席から見ても、僕の震えは分かったらしい。それ以外は何のミスもなく歌は終わり、プログラムは進み、聖歌隊も難なく終え、最後に中3の松田さんのバイオリンでコンサートは締めくくられた。

 

今回のコンサートで、四重唱のこの歌は終わった。だが、もう次の曲が決まっていて、練習は既に始まっている。またこの4人で歌える。とても嬉しい。悲しいことや嬉しいこと、色々な感情が交差する、忙しい一日だった。
(高等部2年 男子)

 

アリス!このたわいない話をうけとり
その手でそっとしまっておいておくれ
思い出の神秘な絆のなかに
子供の日の夢がないまぜになったあたりに
巡礼たちが遠い国で摘んできた
とうに萎れてしまった花冠のように

 

 不朽の名作、不思議の国のアリス。私は今まで何となくしかこの物語を知らなかった。しかもその何となくというのも、原作ではなくディズニー映画の物語だったと思う。今回原作を読んでみて思ったが、何でも元を知らないでいるということは、残念なことだ。話の流れこそ破天荒で何が何だか分からないけれど、子供心を持って読んでみれば、楽しいことこの上なかった。

 

 アリスのおもしろさは、主に二つで、おまけにもう一つという感じだと考える。
 まず、一つ目は、翻訳者泣かせの駄洒落やジョーク。例えば、物語終盤のウミガメモドキの話にある、教科目のジョークだ。英語だと「History(歴史)」と「Mystery(謎)」が掛けてあるけれど、日本語では「まずミステリーがあったよな。(略)古代と現代の霊奇史だよ。」と表現されている。というか、こう言う他ないのだろうと思う。児童ではあるが、原作は英語だから、翻訳すると大人でも考えないと分からない駄洒落が生まれてしまうわけだ。あちこちにちりばめられているこの言葉遊びは、アリス最大の魅力と言える。

 

 二つ目のおもしろさは、三人称小説であることだ。
「それだけなら、べつにどうってこともないやね。」
 本編が始まってすぐに登場する語り手の台詞だ。読み始めてまず衝撃を受けたのがこの書き方だった。現代小説で、語り手が登場人物に対して茶々を入れるのと、この「語り手を近くに感じる書き方」は別物だった。作者が子供たちに語って聞かせたのが、アリスの始まりだった訳で、全編通して話し言葉で一杯だ。それだからか、読んでいて、アリスとして冒険するのではなく、アリスを間近で見ている様な気分になる。アリスの横に並んでいる様な感じだ。この語り手によって成り立つ微妙な読者の立ち位置は、かなり斬新である。私としては、これが前記の魅力と並ぶアリスの味なんだと思う。

 

 さて、最後に、私が「おまけにもう一つ」とした点だが、これは物語の初めと終わりに感じられるものだ。日本的に言えば「衰え」か、作者の表現を借りれば「たあいない悲しみ」だろうか。私は初めに、作者ルイス・キャロルが「アリス」に充てた詩を抜粋した。この詩には、あくまで「不思議の国のアリス」が子供の夢物語であることが記されている。また、この夢物語がいつか懐かしくどこか切ないものに変わるということも。そして物語の終わりには、立場をアリスの姉に変え、その懐かしい思い出となった夢物語でも、アリスが将来語り聞かせるだろう幼い子供たちには、楽しい話になると書かれている。どうだろう。この複雑なあわれは。

 

 —-今の私は大人でもないが、アリス程子供でもない。夢物語と現実に区別がつく年頃だからこそ、この話が味わい深かったのだと思う。大人だったら、それこそ作者の言うとおり「子供の日の夢がないまぜになった」ものだから、おもしろいはず。
 この機会に「不思議の国のアリス」を手に取ってみて、正解だったと思う。多分、同じ年頃でも、この話をつまらなく感じたり、もっと深い部分を指摘したりする人もいるはずだ。けれど、それがミソだ。不朽の名作とは、どんな時代にどんな人が読んでも、考えられるという意味でおもしろいものなのだ。
 とにかく私が最後に書いておきたいことは原作を読まないと分からない世界もある、ということだ。どう感じるか何てのは、後付じゃないかい?

 

(高等部1年 女子)

 

日記。それは毎日の出来事や感想などを記録する物。僕は前に何度か日記に挑戦したことがあります。例えば、小学校一年生の時の夏休みの宿題が絵日記でした。絵を描くのも文章を書くのも決して得意では無かった僕はどうやって書き始めるのかも分からなくて、そして自分のことを書いてそれを先生に読まれるというだけで恥ずかしくて書く気になりません。その後も用事を忘れないようにと手帳を何度か持ってみましたが、どうも定期的に書き込むのが苦手な様ですぐに止めてしまいました。そして、後に残った大量の真っ白なページ達は僕の飽きっぽい性格だけを示していました。日記が途切れる事は僕の人生にとってなんの意味も持ちません。

 

 しかし、日記が途切れる事が特別な意味を持つ少女がいました。アンネ・フランク。彼女は世界中の人々に読まれている日記の著者です。

 

 平凡な毎日を送れているという事はとても幸せな事。それは何度か親にも言われた事であり、テレビ番組などで貧しい国で生きていくのもやっとな人々が映し出されるのを見て感じた事でした。ですが、アンネの日記を読んでその事をもう一度思い知らされました。
 アンネの日記は、アンネ・フランクというナチスドイツ占領下のオランダで暮らしていたユダヤ人の十三歳の少女がつけた日記です。隠れ家に住んでナチスの迫害から逃れながら辛い現実を精一杯生きた二年間が綴られています。

 

 僕は読書は好きな方で読んだ本数も多い方だと思いますが、人の日記を読むなんて事は初めてでした。初めてのジャンルに期待しつつも、どうせ一人称視点と同じ様なものだろうと軽い気持ちで本を開いてみました。ですが、それは思っていたそれとは大きく異なりました。ストーリーなんて無い。文章の流れもむちゃくちゃ。時々入ってくるアンネの自慢話。確かに一人の女子中学生の日記といったらごもっともなのだけれど、こんなもの読めたもんじゃない、と呆れてしまいました。本の最後の最後まで続く自己中心的かつ自意識過剰な語り口調に若干の怒りを覚え、そして何の感動もなく日記が終わる。582ページもある長い本を読みきって残ったものは何もありませんでした。

 

 読み終わってしばらくの間、この本は何を訴えかけていたのか、何がそんなにも多くの人々に感動を与えたのかを考えてみました。感受性の問題なのか、或いは重要な点に気がついていないのか。答えは後者でした。僕は最も大事な事を見落としていたのです。それは最後のページの後、何が彼女の身に起こったのか、でした。最後のページの後に起こった事、それはすなわち日記を書くのを止めた、もしくは止めさせられた原因。それを考えた瞬間、自分の中で何か熱いものがこみ上げてきて、同時にこの日記に込められた一文字一文字の重さが、僕の心にのしかかったのです。

 

 実際、自分がその場に立たされた時、変わらず自分の思う事や起こった出来事を記録するような余裕があるだろうか。恐らく自分がそんな状況に置かれた場合、毎日毎日身を潜め、震えながら生活していたでしょう。日記なんて書く余裕は絶対に無いと断言出来ます。ですが、アンネはしていました。いつ捕まるかも分からない、そんな恐怖を常に感じながらも最後まで変わる事の無い長文を自宅に送り続けました。アンネ・フランクにとって日記が途切れる事はゲシュタポに逮捕され、強制収容所送りになる事を指します。収容所というのは入ってしまったら、一切の自由を奪われる、いわば死も同然の生活が待っている場所です。きっとそこには平凡な暮らしをしている僕にはとうてい理解できない恐怖があったでしょう。

 

 僕の日記の空白は飽きっぽい子どもが平凡だけど幸せな日々を送っている証です。ですが、アンネの日記の空白は収容所に送られ、以後書く事ができないという悲壮感の塊。同じ空白でもその持つ意味は全く異なります。白いページは飽きっぽさの象徴、アンネの日記は僕にそんな平和な時代に生きている事に感謝させてくれました。
(中学部3年 男子)

 

2012年11月17日、ロンドンのSt. John’s Smith Squareで本校の創立40周年記念コンサートがロンドンにて行われました。5年毎にロンドンの名だたるコンサートホールで開催してきた節目のコンサート。今回もたくさんの方々に見守られて本校の生徒たちが堂々とした演奏を披露することができました。

 

何か月もかけて準備をしてきたコンサートだけに、演奏者にとってもかなりの思い入れがあり、その思いを伝える作文にも自然とその気持ちが表れているようです。またコンサートに来て下さった方々から頂いたコメントやお手紙も合わせてご紹介いたします。

 

★★★ ホームページに掲載された40周年記念コンサート関連の記事をまとめましたのでこちらをご覧下さい。★★★

 

今日私は、立教からセント・ジョンズ・スミス・スクエアまでバスで2時間ぐらいかけて行きました。私は、出演者ではなかったのですが、ドミトリーが一緒の岸田先輩は、朝の6時に起きて7時に会場へ向けて出発し、リハーサルをやったのだそうです。

 

私が会場へついて5分後くらいに、メルリーニ先輩が舞台に立って、お客さんたちを見て、すごくきれいな英語で挨拶をしていて恰好良かったです。たくさんの先輩たちが上手に弾けていて、すごかったです。その中でも一番すごいと思ったのは中3の松田先輩でした。すごくうまく弾いていて感動しました。バイオリンで弾いているのに、バイオリンが私に話しているようなのです。バイオリンから、美しい音が出て、「私ってすごいでしょ。」と話しかけている感じがしました。

 

40周年記念コンサートに行けて、すごくうれしかったです。私も先輩たちのように、舞台に立って楽器を弾いてみたいです。「5年後にまたある記念コンサートの時は、私が舞台にたっているのかな。」と思いました。

 

(小学部5年 女子)

 

照明が暗くなり、拍手で包まれる会場。今日は一生に一度の立教創立40周年記念コンサートの日だった。

 

コンサートに出演する生徒は朝6時に起き、7時に学校を出て行った。今日行われた40周年記念コンサートは、規則正しい立教生の生活を狂わせてしまう程、立教にとって大事な行事なのである。僕は出演者ではなく、聴衆の立場だったが、この行事がいかに大事な行事だったのか今日のコンサートを見て分かった。僕の学年からも10人が出演したが、今日のコンサートを見て、今までの練習はこの日のために行われていたのだと感じた。食事中に抜け出して練習をするChoir、自習時間に辺りを見渡すと、楽器の練習に行って空いている席が見える。見えると思ったら、上のチャペルの方からピアノの音が聴こえて来る。これらの謎の正体が、今日のコンサートで明らかになったのである。出演者の長い間の努力が今日、お客様の前で披露された。そう思ったとき、僕は感動してしまった。演奏中も、頭の中を真っ白にして、聴いていた。演奏が終わると、会場から沸きあがる拍手。今日は本当にすばらしいコンサートだったと思う。

 

コンサートが終わって立教に帰ってきてHRが終わった後、僕は驚いたことがあった。それは、40周年記念コンサートの準備が去年から行われていたということである。という事は、今日出演した人は去年からコンサートのために闘ってきたのである。そう思うと、僕の眼は自然と尊敬の眼差しになっていた。次の記念コンサートは5年後にある。その時、僕は立教英国学院を卒業している。だが、5年後も今と同じように、立教生はコンサートの準備を一生懸命して、また感動的なコンサートに仕上げてくれるだろう。僕は心の中でそう期待している。

 

(高等部2年 男子)

 

ある雨の降る古びた羅生門の下で主人に暇を出されてしまった下人が途方にくれていました。このまま生きるために盗賊になろうかとは思ってみてもなかなか踏み切れない、そんなときに、生きる糧を得るために悪事とわかって死人の髪の毛を抜く老婆に出会います。老婆は自分が生き抜くためであり、この死人も生前は生きるために悪事を働いたのだから許されるだろうと口にします。下人はその老婆に対し正義感を燃やしてしまいましたが、しまいにはその言葉に納得し、老婆の着物をはぎとってしまいます。そして「私もそうしなければ飢え死してしまう体なのだ。」と言い残して消え去るという選択をしました。

 

 飢え死をするのか、盗人となるのか決心がつかなかった下人。多分、自分もその場にいたら、そう簡単に決心はつかなかったと思います。でも自分には罪悪をしたくないから飢え死を選ぶなんて勇気は持ち合わせていないと思います。だとしたら、私も下人と一緒の行動に出るかも知れません。下人がしたことは正義的なことではないと思います。しかし自分がその場にいたとしても飢え死することを選ばずに追い剥ぎになることが悪と言えないと思います。それは、生きたいという人間の生命への執着がそこにあるからです。

 

 「羅生門」は「生きる」ということの人間の本能を描いている物語だと思います。このまま飢え死してしまうのか、それとも悪事だとわかっていても盗人となってしまうのか。芥川龍之介が描いたのは、人間はどうあるべきかなどという理想ではなくて、命の現実だと思いました。幸いにも私達は、この命の現実を目の前に突きつけられているような極限的な状況のない日常を生きています。しかし何かのきっかけで、このような「善」「悪」の分岐点に立たされることもあるはずです。

 

 私は「羅生門」を読んで、人間とはつねに「善」と「悪」が重なった存在であると感じました。また同時に「善」と「悪」は状況により、揺れ動き、ひっくり返る、表裏一体なものであるのだと気付かされました。そして「正義」とは、「善」とは何であるか、その基準は思う以上に複雑で私にとっては難しい問題となりました。しかし、これから生きていく経験の中でその基準を、自分が納得できるようにしっかり考えていこうと思います。
(中学部2年 女子)

 

僕はこの作品を読んで比喩や独創的な表現が多く使われていると思いました。例えば、天の川を「川や乳の流れた跡」等と言ったり、「天の川を本当に川や乳の流れと考えるならば、その一つ一つの小さな星は砂や砂利、細かに浮かんでいる脂油の球にあたる」等のような表現が沢山あったためです。又「小さなピンセットで一枚の紙切れに、まるで粟粒ぐらいの活字を次から次へと拾い集める仕事がある」とありましたが、初め、現実的な理解をしたため全く意味がわかりませんでした。そして何回も何回も読み返しました。そして自分なりに想像すれば良いのだと気付いたのです。

 

 文を読んで、このストーリーの背景の色のイメージを頭の中で描いたところ、僕は大体「紺色」という印象が強かったです。それは決して表紙が紺色だからということではありません。
時々古い感じの言葉が出て来るのが印象的でした。「きっかり」を「かっきり」と言ったり、「言う」を「云う」と書いてあった部分です。

 

 ファンタジーのストーリーでは、書く方の表現の自由、そして読む方の感じ方の自由があり,それだからこそ理解が無限に広がり、壮大な感じがするのではないかと思います。

 

 銀河鉄道での出来事は本当は夢の中での出来事だったのか?という疑問の中に僕もさまよいました。それはジョバンニ(主人公)が目を覚まし、草の中で眠っていたシーン、そしてそこに「涙と胸のほてり」という表現が入っていたからかもしれないです。摩訶不思議な出来事が多く、面白みがある部分は他にもあります。「鶴や雁、白鳥等を押し葉にして食べると、お菓子の様に甘い」という表現や、実際死んだはずの人達が汽車に乗っていたりといった事があります。この死んだはずの人達が汽車に居るという事は、この汽車は「死人」が乗る天国行きの汽車なのだと僕は感じました。けれど、もっと奥が深いのだと思います。

 

 ジョバンニが胸が冷たくなったのはなぜか?この時大切な友人が危機にあっていると感じたからだと思います。

 

 赤い帽子をかぶり、両手に赤と青の旗を持って空を見上げて手旗信号をしていた人がいた。青い旗を挙げると鳥の大群が一斉に進み、赤い旗を挙げると鳥は止まり、潰れた様な音がぴしゃあんと鳴る。この事からこの人は、鳥を守る為に信号機の様な役割を果たしているのだと思いました。

 

 作者は直接的には書いてない事でも、その辺りを読み手に感じてほしいのだと思います。
 ストーリーの中では鳥が沢山出て来ます。作者は鳥が好きなのかなと思いました。神話やファンタジーに度々鳥が登場しますが、鳥の存在が物語をどこか神秘的にする効果があるのではないかと思いました。
(中学部2年 男子)

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