お医者さん。それは、私のあこがれの仕事。小さいころから、かっこいいなあ、すごいなあ、とあこがれていた。私は、小さいころに一度入院したことがあるが、その時のお医者さんはとても優しかった。それでさらに、お医者さんにあこがれるようになった。
もちろん、病院に行くこと自体は、何をされるかわからないし、いろいろと不気味な機械が置いてあるし、あまり好きではない。でも、そこで多くの命が助けられていると考えると、すごいと思う。
一人一人診察していって、一つ一つ薬を選んで、手術が必要なら手術をする。手術といっても、時には二日間にわたることだってある。手術が成功すると、患者さんも、そして患者さんの身内の人からも、どれだけ不安が消えることか。時には失敗することだってあるかもしれない。でも、その人を、全力で手当てできたなら、放っておくよりずっと罪悪感は少ないと思う。
私は特に子どもが大好きなので、小児科医になりたい。また今、私はイギリスにいるので、英語をマスターして、アフリカ等の国や、国際的な医療活動をしたい。
去年の夏、自分の興味のある仕事を調べてくるという宿題が出た。もちろんその時も、お医者さんになりたいと思っていたので、インターネットで調べてみた。それによると、大学を出て、医師免許を取り、常に新しい知識を得ていなければならないようだ。さらに、年をとれば視力が悪くなるから、いつまでもできる仕事ではあるまい。ずっと楽しいわけでもない。ショックなことも沢山あるだろう。
しかし、そんなことを考えても、なぜか私は医者になりたい。叶うか叶わないかなんてわからないけど、私の小さいころからのずっとあこがれていた夢、「お医者さん」に向かって、全力で走り続けたい。
(2011年度小学部6年生 女子)

創立40周年を迎えるにあたって、この春休みに本館(女子寮)と新館(男子寮)の窓枠修理/外壁塗替えや、教室棟の屋根の改修、女子寮の非常階段の付け替え、それに男子寮1階シャワールーム/トイレの全面改装が行なわれました。
校内は毎日クリーニングレディースや掃除のおじさん達がこまめに手入れをしていますが、20世紀初頭に建てられたマナーハウスである本館は定期的に入念な改修を行っています。今回は3階までとどく大きな足場を組み、全ての窓枠を直してペンキを塗り直す大改修でした。あわせて本館の非常階段も新しいものに取り替えたので、巨大なクレーン車が数日間校内で作業をするという程のスケール。その光景は、普段美しく広がるキャンパスを見慣れた目にはちょっと異様にも映りましたが、今回の工事の規模の大きさを物語っていました。
新館のシャワールーム/トイレは春休みに入って数日すると、中身がすべて取り払われガランとした不思議な空間になりました。この工事の学校側責任者であるジョーンズさんに、「今のうちに写真をとっておいてね。これがどんな風に変わるか、見物よ。」と言われて撮影した写真 — 数日前まで生徒たちが生活していた場所とはとても思えないものでした。
水仙が咲き、桜が芽吹き、暖かい日が1週間以上も続いた後、イギリスはイースター休暇を迎えました。この休暇はヨーロッパではクリスマス並のものなので、当然工事も一時中断かと思われましたが、なんとイースター期間中も校内の作業は続いていました。イギリスではちょっと珍しいことかも知れません。
そして桜の花も散り始めた、生徒帰寮の2日前に遂に男子寮のシャワールーム/トイレが完成。新館に入った先生方もその変容ぶりにはビックリ!
「ホテルに来たのかと思いましたよ。」
この言葉には、近くにいたジョーンズさんもにっこりでした。
生徒たちがそれぞれの国で思い思いに過ごしていた春休みの間、学校では新しい学年を迎える生徒たちの為に着々と準備が進んでいたようです。

 

去年の11月9日にやって来た茶室。覚えていますか?
ヴィクトリア&アルバート博物館(ロンドン)から譲られた30年前の茶室。ひとまず1階の教室に収められていました。
3学期を通じて、少しずつ組み上がってきています。
実は11月に搬入してすぐ、大きな箱を開けて、木材、ジャッキ、障子、礎石…ひとつひとつを確認したとき、問題発生。
水屋と床の間部分があまりに大きくて、予定していた教室に入らないのです!いえいえ教室のサイズには合うものの、入り口のドアの大きさが十分ではなく、入れることができない。
はっ…と気づいて全教室を考えてみたものの、どの教室も入り口が小さい。11月の搬入のときも、外に面したガラス戸ごと、一時的に全て取り外して入れたのです。
さらなる解体を考えたものの、釘の打ち込みが複雑で、木材も乾燥しきっていますから、できれば抜きたくない。
あれあれ大変です。-どこに置こうか?
今回博物館からのお話を下さった裏千家ロンドン出張所の先生にも見ていただいて、結局そのまま搬入した教室で組み立て、使うことになりました。
3学期を通じて、生徒たちが気づかないうちに組み立てられていったお茶室。
実は技術科も教え、電子系統の管理やあれこれ壊れたものの修理などひそかに立教の縁の下の力持ちをして下さっているT先生の活躍のおかげです。
礎石を置き、柱を立て、横木を渡して鴨居部分もあげられました。
すでにほぼ完成しているものの、やや床が弱いことが分かったので、もうちょっと補強が必要です。
さあ1学期にはいよいよ利用できるでしょうか。楽しみです!

 

春の花といえば、日本なら「桜」。季節と共に様々なモチーフで私達の生活文化の中に根付いています。
英国では春の花といえば、水仙やブルーベルでしょうか。いえいえ、立教にはしっかり「春の花 桜」があるのですよ。
なぜ立教に桜があるのかって? -それは日本から持ってきたからです。
ずいぶん昔のことですが、日本で用意された桜の木々を遠く英国まで空輸してもらいました。
植物を運ぶことはカンタンではありませんでした。しかも1~2本ではありません。10本単位で送るのです。検疫だってあります。
「だから、植物の検疫に定評のあるオランダに一度送って、経由して英国に空輸したんだよ。」だそうです。
けれども、日本とおなじ温帯の気候とはいえ、やや涼しい英国。桜の木はきちんと根付いたのでしょうか?最初の年から満開の桜が見られたのでしょうか?
「何本かはやはり死んでしまった」と長年立教の庭師を務めているピーターが言っていました。
こうして、今30本近くの桜が元気に毎春花をさかせています。
立教の桜は駐車場に沿って植えられています。
これは校内を貫通しているパブリック・フットパス(PUBLIC FOOTPATH英国全土に整備されている公共の散歩道)にも沿っています。天気のよい春、家の近くからのんびり散歩を楽しむ人々が、校内のフットパスを通り抜けるとき、美しい桜並木を楽しんでゆかれます。
花がつくのは3月末から4月。4月中旬に始業する生徒たちは、残念ながら立教の桜並木を見ることはありません。
今年も桜が見事に咲きました。
あたたかい季節を迎えて元気になった蜂たちが、ぶんぶん花の間を飛び回ってうるさいほどです。

 

小学校六年生の国語の授業で、星野道夫さんの「森へ」を読みました。自分たちが行ったこともないアラスカの自然、森の様子が、まるで自分たちが足を踏み入れているかのように読み取れ、思わず感動した生徒たち。カメラマンである筆者の撮影した写真も無論イメージの手助けにはなっていましたが、擬音語、比喩表現、問いかけ、感嘆文といった、文章上の工夫が多くなされていることに気がつきました。そこで、自分たちもこうした表現をできるだけ取り入れて、第三者が読んでも情景がイメージでき、自分たちの感動が伝わるような文章を書いてみよう、とチャレンジしてみました。
*   *   *   *
私は理科の時間に、テレビでアナウサギの生活を見ました。すると、驚く事が沢山ありました。
アナウサギは毎朝起きると、草を食べながら耳を立て、敵が近づいてくるのを見張ります。その日も、いつものように見張っていました。少しすると敵が近づいてくるのがわかったようです。急に顔を上げて逃げ始めました。なんて速いのでしょう!大きくジャンプをしながら消えて行くのです。解説によると、一回のジャンプの幅は二メートル以上、最高時速は七十キロメートルだそうです。以前父から、「ウサギはすごい力を持っているんだよ。」と言われたことの意味がよくわかりました。
アナウサギが生活している場所は麦畑です。毎日毎日草を食べ、敵が近づいたら逃げる事のくり返しです。しかし、ある時、いつもと様子が違いました。どうしたのでしょう?メスの回りにオスが一匹、一匹と増えていって、最後には十匹にもなりました。そして、オス同士のバトルが始まりました。まるでウサギのボクシングです。全部のウサギに勝ち残ったオスは、メスの所へ近づいて行きました。ああ、やっとわかりました。メスの取り合いだったのです。
これで平和に暮らせるな、と思ったら大間違いでした。オスがメスに近づいていくと、メスはオスにキックやパンチをバシバシと加えます。今度はオスとメスのボクシングが始まりました。メスはまだオスを認めていないようです。そうです。メスは戦い終わったオスとまた実際に戦って、大丈夫だと思ったら、自分のパートナーとして認めるのです。
(小学部6年生 女子)

 

国際性
国際性と言われても何も思いつかないが、今道さんの作品を読んで思ったことがある。
まず、辞典で国際性を調べると、「外国、外国人とのかかわりかた。自国の常識にとらわれないものの見かた。」とあった。最近よく、「これからは英語の時代。英語ができないと就職もできないぞ。」というようなフレイズを耳にする。
日本は世界でも数少ない植民地になったことがない国で、僕は日本ほど外国人が少ない国を見たことがない。中国だってアメリカだってヨーロッパにだって他の国の人はいるし、移民問題にまで発展している所だってある。中学に入ってから、やっと英語を始める日本人との違いは一目瞭然だ。
ある人はもう日本人には家を貸さないと大家さんに言われ、ある人は行ったこともない国の、話したこともない同世代の人たちにサッカーを誘われたりもする。ある人は学校外出でロンドンに行った時に、会ったこともない、きっとこれからも会うことがないような人と話してメールアドレスを聞いたらしい。一切何の関わりもない外国人の学校のスクールコンサートに来る近所の人たちや、行ったこともないような遠い国で起こった地震のためにお金を寄付してくれる人たちや、集めてくれる人たち。日本の文化に興味があるからって、数少ないブレイクを削ってまでも日本人学校に訪れてくれる人もいる。
いろんな人がいるが、その誰もが、外国人である僕たちにしてくれた現地の人たちのことである。
国際性とは、こういうことではないのだろうか。気をつかってくれる事、普通に接してくれる事、心配してくれたり、知りたいと思ってくれる事。どれも日常的に僕たちがしていることだ。だが、本当に、そういう当たりまえの事が、当たりまえにできるだろうか。文化も違うし、考え方も違う。言葉だって通じないんだし、無理に決まっている。まだ多くの日本人はそう思っていると思うし、僕だって思ってないことはない。必ずしも考えが食い違わない訳ではないと思う。だが、そこで文化の違いや考え方の違いを受け入れる事、認める事が、「外国、外国人とのかかわりかた。自国の常識にとらわれないものの見かた」であり、今道さんの言う国際性なのだと思う。
(中学部3年 K君)

 

雨ニモマケズ
髙 野  晃 一
昨年の卒業終業礼拝は三月十二日、東日本大震災の翌日でした。今年は十日で大震災の一周年の前日です。この一年間、よく用いられた「絆」について話し、礼拝や授業で人の生きる意味を考えてきました。先日も聖書の授業で生徒に原子力発電の今後、廃止か継続かに就いて考え、文を書いてもらいました。これからも難しいけれど避けて通れない問題です。生徒たちは皆かなり真剣に考え書いていました。
この一年、日本でも世界でも繰り返しよく朗読されたものに、大震災との関連から岩手の宮沢賢治さんの「雨ニモマケズ」の詩があります。以前、私はある新聞に「夏休み」という題で依頼され書いた文があります。
「人はときに日常から離れた時間を必要とするようです。普段気づかない全く違った新鮮な視点が開けます。社会人にも学生にも夏休みはその格好の機会であると思えます。私が中学三年生の夏休みの時でした。学校で美術と国語を教えていた田口弘先生に連れられ、同級生二人と岩手の花巻に行きました。終戦後でしたのでリュックサックにお米を詰め、上野駅から夜行列車に乗りました。
翌朝花巻駅に着き、先ず宮沢賢治さんの「雨ニモマケズ」の詩碑に行きました。弟の清六さんの家を訪ねると、まだ戦後なので訪問者も多くなかったのでしょう。座敷に招き入れてくださり、押入れから童話や詩の原稿、「雨ニモマケズ」の手帳を見せていただきました。自分の手に触れた感触と感激は今も忘れていません。
その後、太田村山口の高村光太郎さんの山荘を訪ねました。高村さんは智恵子さんの縫った袖無しのはんてんを着て、パリ時代の思い出を話されました。かみしめるように話す高村さんの低い声が心に染みこむようでした。膝の上に置き、時々動く大きな手が彫刻そのものに見えました。その夜、近くの小学校の教室に泊めていただきました。あたりが暗くなると村の若者たちが集まって「鹿(しし)踊り」が始まりました。素朴で勇壮。村人たちに混じって高村さんの姿も見えました。それから岩手山にも登り帰りました。夜明けの月見草が露を含んできれいでした。
その後、高村さんから田口先生宛てに書が送られてきました。「我もし其(そ)の見ぬところを望まば、忍耐を持て之(これ)を待たん。ロマ書(第八章二五節)」。高村さんが書かれた唯一の聖書の言葉です。旅は私の人生を決する数日となりました。」
最初この「雨ニモマケズ」の詩の背景には、賢治さんが熱心な日蓮宗の信徒であったことから、法華経の「常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)」があるとされて来ました。一切衆生は皆やがて成仏すると尊び、「我、あえて汝等を軽しめず。汝等は皆やがてまさに仏となるが故に。」と言って、絶え間ない軽蔑や迫害にもめげずに四衆大衆を礼拝して回った菩薩です。
けれど近年になって、生前親交のあった斉藤宗次郎さんの姿が賢治さんの心の中にあったのではないかと考えられるようになりました。宗次郎さんは明治十年花巻で生まれ花巻小学校の教師になりましたが、無教会の内村鑑三さんの文に触れてキリスト教徒となり、日露戦争直前に強く反戦論もとなえました。そのため二十八才のとき教育界から追放され、花巻で書店と新聞店で生計を立てていました。この二十年の間に花巻農学校の教師だった賢治さんとお互い尊敬し合う親しい交流が続いたようです。
最近発見された宗次郎さんの日記によると、賢治さんは盛岡中学校の学生の時、教会に出入してキリスト教に触れ、宣教師牧師たちとも親しくしていたようです。やがて斉藤宗次郎さんは晩年の内村さんの宣教に協力するため、花巻の人々に惜しまれながら家族で東京に移住しました。賢治さんの心の中には、花巻で「雨ニモマケズ風ニモマケズ」毎日新聞配達をしながら「病気ノ子供、ツカレタ母、死ニソウナ人、ケンカヤソショウガアレバ」、その人々に親身になって尽した宗次郎さんの姿があったのではないかと思われます。
ここは英国なので、今まで授業の中で賢治さんの童話「虔十公園林」「祭りの晩」「セロ弾きのゴーシュ」などを英訳で読みながら、「ベートーベン第六交響曲:田園」も聞きました。授業で読んで訳しながら、私自身胸に深く響きました。私が最初に勤務した教会が福島原子力発電所に近い日立市の教会で、震災後話題になった「常磐ハワイアンセンター」にも子供たちとよく行きました。また阪神淡路大震災の直後、震災復興のため大阪に転任したためでしょうか。これからも賢治さんの童話も読み、人にとって「本当の幸せ」の何かを生徒たちと共に考え学び続けたいと思っています。

 

水曜日はサウスダウンズにいきました。
着いたときは丘の間から虹が出ていてとても綺麗でした。
丘の上には馬や牛の糞がたくさん転がっていて歩くのが大変でした。
風が強く、ジャンプをすると前に押し出される感じがして楽しかったです。
帰りはアラン川の前にあるカフェに行き cream tea を食べました。おいしかったです。
(中学部2年生 G君)
*   *   *   *
私たちは中学2年生全員でサウスダウンズに行ってきました。
サウスダウンズはとても大きな丘で、あんなに大きな丘に行ったのは初めてです。
全員でミニバスに乗って、丘を登っていきました。
すると立教のほうで雨が降っていたので丘のほうからは虹がみえました。
ミニバスから降りると、キジがあるいてたり、海がみえたり、下のほうにある町がとても小さくみえて感動的でした。
サウスダウンズは横に歩くことができて、歩いていくと360度見渡せる素晴らしい景色がありました。3学期の終わりに全員でこんな素敵なものがみれて、とてもラッキーだし1つの思い出となり良い体験になりました。
(中学部2年生 Iさん)
*   *   *   *
水曜日は、中2全員で立教から車で30分ぐらい離れてるサウスダウンズのピットハーストの丘に行って、その後お茶を飲みに行きました。
この日はとても天気が悪くて雨が降っていたのですが、着いたときにはもう止んでいました。それだけでさえラッキーだったのに、奇跡的に丘の上から虹まで見れました。とても綺麗で、嬉しかったです。虹を見ながら、どろどろの芝生の上を少し散歩して、皆で色々と話してたら、目的地にすぐ辿り着きました。それは、空へ飛べる場所でした。皆でジャンプして、その瞬間をカメラで撮ったら中2全員が飛んでるように見えるのです。とても風が強くて、ジャンプするときに飛ばされるかと思ったのですが、大丈夫でした。私は今、皆が飛んでいる写真を見たいという気持でいっぱいです。
その後は車までまたどろどろの道を戻って、ちょっとしたかわいらしいtea roomへ車で行きました。私は、そこでケーキとジュースを飲んで、久しぶりに贅沢な気分を味わえて、とても幸せな気持になりました。
皆との思い出が出来てとても楽しかったです。また、皆で行きたいと思います。
(中学部2年生 Sさん)
*   *   *   *
水曜日の5、6時間目にサウスダウンズのピットハーストヒルに行きました。
立教からは、30分程かかりました。午前中雨が降っていたので、地面がビチャビチャでした。とても、歩きずらっかたです。風もとても強かったのでぬかるんだ地面でこけそうになりました。実際こけてる人もいましたし…(渡邊先生など?!)
ちょっとした崖などがあり、強い風のせいで若干怖かったです。
その後はお茶を飲みに行きました。そこで僕は、お茶とチョコレートケーキを食べました。大半の人が、ハイティーを食べていました。おいしかったのですが、夕食が食べられなかったです。パニーニを半分にしてしまいました。
これからもこういう機会があるといいです。
(中学部2年生 K君)

 

2012年 海外子女教育振興財団主催 学校説明会・相談会

財団のホームページからの事前予約が必要です。会場内に本校ブースを設け、個別相談に対応します。

東京 7月31日(火) 国立オリンピック記念青少年総合センター(渋谷区代々木)
大阪 7月21日(土) 毎日新聞ビル オーバルホール (大阪市北区)
名古屋 7月20日(金) 名古屋国際会議場(名古屋市熱田区)

2012年 立教英国学院学校説明会

予約は不要です。説明会の後、本校教員による個別相談の時間があります。

東京 8月26日(日) 立教学院キャンパス(予定)
大阪 8月25日(土) 追手門学院スクエア(予定)
名古屋 ーーー ーーー

海外での学校説明会

当該校の生徒・保護者以外で参加をご希望の方は各日本人学校にお問合せください。

6月7日(木) ロンドン日本人学校
6月22日(金) パリ日本人学校

 

 

本校のHPはこちらから。

「下向け、目を合わすな。下向け、仲間を見ろ」
幕開けは、囚人達の暗く重い、辛い労苦を耐え忍ぶ声だった。警官と目が合ったら、それだけで鞭打たれることが分かっているのだから決して目を上げるな、と言っているのだ。当時の情勢をよく表わしている始まりであると思う。
ジャン・バルジャンは、元々心根の優しい少年だった。彼には妹がいたが、家が貧しかったためパン一切れを買うお金の余裕もなく、妹を飢え死にさせない為にパン一切れを盗んだのだった。彼は逮捕されるが、妹や家族を思い何度も脱獄しては捕まっていた。19年経ち、仮の自由を手に入れてからも彼は人の為に自ら人生を歩んでいく。
もし、彼が貧乏な家の生まれではなく、中流もしくは上流階級の生まれの者であったなら、彼はどのような人生を送っていたのであろうか。権力やあり余る金銭を駆使して、社会の弱者に尽くしたのであろうか。そういうこともあるかも知れない。だがしかし、私はそうではないと思う。彼は辛く苦い経験をしたからこそ、そしてその上であの立派な司教と出会ったからこそ、彼の人生は最後美しく輝いていたのだろうと思う。
妹のためにパン一切れを盗みさえしなければ、彼は19年も肉体的にも精神的にも、あそこまで傷付けられることはなかったかも知れない。だが19年苦しんで一人ぼっちにならなければ、彼はあの司教と出会うことはできなかった。そしてその司教のどこまでも強い優しい心に触れ、彼自身があそこまで輝くこともなかったのだ。
経験する苦しみや出会う強さ優しさの形に違いはあるだろうが、これは今も昔も全ての人に当てはまることだ。苦しんだり、傷付いたりするから、人は人の優しさを知ることができるようになるのだろうと思う。そして優しさを知ったから、人は人に優しくできるようになるのだろう。ジャン・バルジャン。彼は良きキリスト者であった。私は時々、彼が天使にすら見えてくる。彼のような立派な人間になることは難しいかも知れないが、せめてどんな人にも分け隔てなく接し、忍耐強さと優しさを少しでも多く持った人間になれるように、人を笑顔にできるよう日々努力していきたい。
(高等部2年生 女子)

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