朝鮮人の思いで(3)

 

あの方はどういう方であったのだろう。

私より二十くらい年上であったろうから、
今生きておられる筈はない。あんな悪さを
されて、あのように抑制すると言うことは、
並の人間にできる技ではない。相当教養の
ある、地位も高い方だったのかも知れない。

改 めてお会いしたかったと思うが、勿論
果たせる夢ではない。 1910 年(明治43 年 )、
いわゆる日韓併合以来、朝鮮は日本に編入
された。

当時朝鮮、台湾、南樺太、マーシャル群島、
千島列島は日本の領土となっていた。

だから朝鮮人は日 本国民だったのである。
しかし、一つの国が他の国に併合されると
言うことは、様々に困難な問題を孕むこと
になる。

日本の支配に服することをめぐって、 朝鮮人
には様々な思いがあったであろう 。

学校では、民族的差別意識を持ってはなら
ないことが、繰り返し指導されたが、やはり
小学生の間にあっても、朝鮮人の子どもに
対する感覚には、独特なものがあったように
思う。

但し私は、そのような差別意識を全く持って
いなかった。かえって朝鮮人の子どもに
意地悪されたこともあるくらいである。

総じて子ども同士は仲良くおおらかであった。

その4につづく…

朝鮮人の思いで(2)

 

敗戦と共に「勝利者」の立場に立った
朝鮮人については、様々な噂が流れて
いた。

肉屋に行列を作っていたら、朝鮮の
青年がオートバイでやってきて、行列
など無視して、 あらかた肉を買い占めて
いったという事実は私の姉が確認して
いる。

姉は盲腸で入院しているときに、その
朝鮮人の青年と親しくしていたのである。

「朝鮮人は怖い」 、そんな思いが私の心に、
いつしか形成されていた。

それにしても 大変なことをやらかしたもの
である。

心臓が凍るというのはこんな時だろう。

「ごめんなさい。僕がきれいに拭きます」

そんな言葉を口走ったのではないだろうか。
当然何発 も殴られると覚悟した。

その朝鮮人の紳士は、勿論怒り心頭に
発したようではあるが、決してつかまえたり、
殴ったりはしなかった。

朝鮮なまりのある日本語で

「駄目でないか。学校先生、こんなことをやれ
と教えたか 」

それが彼の怒りの表現であった。幾度も幾度も
平謝りに謝ったが、彼は後ろを振り向くこともなく、
すたすたと私達を離れていった。

 

その3につづく…

朝鮮人の思いで(1)

校長 小川義男

アメリカとの戦争が終わったのは
1945年8月15 日のことである。

私は当時旧制中学の一年生であった。

この頃に私は大変な失敗をやらかした。

授業も終わり帰宅すべく私は駅に向か
っていた。沼田という親友と一緒である。

沼田は、後年小樽商科大学で数学の
教授を務めた。学校一番の秀才であった。

二人ともまだ 背も小さく幼かったから、
悪戯をしながら下校することが多かった。

ちょうど雨上がりで、道路の諸所に
水たまりができている。舗装道路などと
いうものは身近には存在しなかった
時代である。

大きな石を拾い、それを水たまりに
ぶち込んでその飛沫を相手に浴びせ
かけようとする他愛もない遊びである。

互いに飛沫を浴びないように用心し、
素早く体を交わす、そんないたずらで
あった。

何度か飛沫を浴びせられた私は、
眼前にひときわ大きな石を発見した。

「これなら沼田をびしょ濡れにしてやれる 」

そう思った私は、素早くそれを拾い上げ、
ざんぶとばかり水たまりに投げ込んだ。

ところがその飛沫を、肩のあたりまで、
したたかに浴びたのは、朝鮮人の紳士
だったのである。

真っ白な背広を着ていた。当時日本人で
そんな高級な服を着ている人はいない。
それ に長髪である。頭がポマードで
塗り固められている。

その頃日本人は例外なしに丸坊主で
あった。だから一目で朝鮮人だと感じた
のである。

 

その2につづく…

初めての喧嘩(5)

 

ひとつとして私は、己自身が不利益に
扱われたというようなケースでは、滅多に
憤慨しないことを知った。

これが個性というものであろう。

他人が理不尽に扱われたときにのみ、
著しい憤慨を覚えるという、この個性は、
果たして良いものなのかどうか、それは
今も分からない。

今ひとつ、「感情は力関係に従属する。」と
いうことを、私は人生の様々な場面で体験した。

 

葛藤では、負けないことが大切なのであって、
勝利した後、相手と感情的にまずくなると言う
ようなことは心配する必要がない。

これは私の個性と言うよりは、何人も否定できない
人生の真理なのではないだろうか。

「人間に生まれながらの能力差はない」

これは私の、現場実践に裏づけられた信念で
あるが、個性となるとそうはいかない。

どうも人間は、生まれながらに様々に異なる個性を
持って、この世に送り出されてきているものらしい
のである。

それぞれが、いかなる先天的個性を持つ存在で
あるのか、そのあたりを深く 理解することから
出発しなければならないと思うのである。

<完>

初めての喧嘩(4)

何と彼は、雑草の生えた崖を斜めに駆け下り、
私の方に走って来るではないか。

あのときの恐怖を私は今も覚えている。

とっさに私は、草の根本に露出し ている
手頃の石を拾い身構えた。

ところが何と大滝君は、いきなり

「義男ちゃん、昨日ごめんな。
俺悪かった んだ。」

と謝ったのである。

私は後ろ手に隠した石を、大滝君に
分からないよ うに苦労して捨てた。

「感情は力関係に従属する。」

長く人生を生きてきて掴んだ私の実感で
あるが、その萌芽はこのときの体験に起因
しているのかも知れない。

その後も、いろいろな場面で葛藤に直面
せざるを得なかったが、私は、大滝君との
人生初めての喧嘩で、幾つかのことを
学んだように思う。

その5につづく…

初めての喧嘩(3)

 

私は、あの強い大滝君が、私の「攻撃」に
屈したことに驚いた。その驚きは、 その後の
私の人生に、大きな影響を及ぼしたのでは
ないかと思う。

ところが、翌日は学校に行かなければならない。

昨日は「サプライズアタッ ク」で勝利しただけで
あって、大滝君は、私が互角に戦える相手では
ない。

怯 えながら学校に向かった。幸い大滝君には
会わずに登校することができた。も しかすると、
少し早めに登校していたのかも知れない。

だが、授業が終われば学校からは、帰らなけれ
ばならない。その時刻は遂に来た。

私は、「今日は大滝君にやっつけられる」と思った。

学校は坂道を下っていった所にあった。怯えきった
私は、その坂道の崖下にある草むらを通るコ ースを
選択した。坂の上の方を振り返り、振り返り歩いて
いったのだが、何度か振り返るうち、大滝君の姿が、
そこに現れた。彼も私を認めた。

 

その4につづく…

初めての喧嘩(2)

実はその時、大滝君の頬の右下には、
大きな「おでき」ができていた。

それが治りかかり、厚みのある、直径
5センチくらいのかさぶたになっていた。

北海道では、これをガンベと言う。
アイヌ語なのか、北海道で発生した
方言なの かは分からない。

私の怒りは頂点に達した。「こいつは
絶対に許せない」強くそう感じた。

その瞬間、私の右手は大滝君の大きな
「ガンベ」を、かきむしった。大きなかさ
ぶたが取れ、そこから血が流れ出た。

「大変なことをした。」そう感じつつ、
幼 いながら私は格闘に入る態勢を
取った。

ところが何と大滝君は、「カアチャアン」と
泣きながら自分の家に駆け込んだのである。

大変なことをしでかしたのだから、私も家に
帰り、父にその顛末を報告した。炭坑は
三交代の制度になっていたから、非番
の父は家にいたのである。

「良くやった。これからもその調子で頑張れ」

それが父の言葉であった。 なんともはや、
荒っぽい家庭教育もあったものである。

その3に続く…

初めての喧嘩(1)

狭山ヶ丘高等学校長 小川義男

生来おとなしい性格だと思うのだが、
人と争ったことがないわけではない。

今日は、私の記憶に残る一番古い
喧嘩の記憶に触れたいと思う。

相手は大滝君という二年生。私は
一年生であった。古い記憶だから
前後の脈絡は分からない。

斜面の上に建てられた炭坑長屋の
前庭でのことである。前庭 と言っても、
別段広い庭があるわけではない。その
少し向こうは急峻な崖であ る。落ちると
困るので、簡単な垣根がしつらえられて
あった。

その狭い場所に、 茣蓙を広げて大滝君
と三人くらいの女の子が遊んでいた。私も
それに加わる形で茣蓙の上に座っていた。

大滝君は生来我が儘な子のようであった。
いつも無理を言って女の子や小さ な子を
泣かせていた。その時も大滝君は、幼い
私の判断では絶対に許すことのできない
我が儘な言動を取っていたらしいのである。

二年生だし背も高く体力 もある。とても
戦って勝てる相手ではない。しかし、その
内容、理由は覚えていないのだが、
「これは許せない」と全身の血がたぎり立った。

その2に続く…

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