熊の話(4)

私の受け持ちのクラスに山下勇という
生徒がいた。実名である。彼は今も
健在である。

その勇の家の羊小屋から、ごそごそと
音がする。狐が悪さをしているのでは
ないかと思っ た勇の姉(お嫁さん)が
懐中電灯を持って小屋を見に行った。

羊が十匹殺されている。しか し熊の姿は
ない。お姉さんは小屋全体を見回していた
が、そのうちに、壁に打ち付けてある五寸釘
(16センチ程度の長さ)に、片手に余るほどの
熊の毛がついていた。

羊を攻撃しよ うとして振り上げた手が、五寸釘
にひっかかったものなのであろう。お姉さんは、
その場にへたりこんだ。 田舎ゆえ、滅多に電話
のある家などない。

本村への連絡には、学校に置かれてある有線
放送が活用された。この有線放送の「基地」は
あちこちに置かれていて、ラジオのない時代の
ラジオ代わりに活用されると共に、万一の場合、
電話の役目をも果たしていたのであ る。

早朝に私はたたき起こされた。そうして本村に
「部落に熊が出た」と通報したのであ る。何しろ
羊を殺す熊だから、何をするか分からない。

翌日の夜は別の家に現れて、トウモロコシ畑を
荒らした。茎も玉蜀黍 とうきびも、ばりばりと食い、
その上力任せに玉蜀黍を荒らし回ったというの
だから可愛くない。

だが、中、小学生が学校を休むわけには行かない。
結局帰りだけ早めに集団下校させる事になった。
しかし何しろ部落は谷間に沿って東西12キロに
及んでいる。学校はその真ん中にあるが、特に
山の深い側の部落が危ない。その奥の部落を
「上湯内( かみゆない) 」と言ったが、その部落
まで子供を送って行く事は、誰もが望まない。
そこが熊の棲息地に最も近いのであ る。

先生方の目は私に注がれた。何しろ私は十九歳、
首がちぎれても恐ろしいとは言い出せない年頃で
ある。

その5に続く…

熊の話(3)

皆さんは熊を食べたことがないだろうと思う。
経験のある場合も、ある人は大変旨いと
言い、ある人は「食われたものではない」と
言う。

熊は旨いかまずいか、その答えをお教えしよう。
冬眠に入る直前の熊は、豚に負けないくらい
実に旨い。春、冬眠から出てきた熊は、やせ
衰えてひょろひょろと歩く。子連れでもない限り、
その頃の熊なら私でも倒すことができる。こんな
時季の熊は、肉も脂もなく食えた代物ではない。
「まるで靴の底のよう」なのは、この時季の熊で
ある。

ともあれ、肥え太るため秋の熊は命がけである。
私は八月の末に、朝日岳から黒岳まで 大雪山を
単独縦走した事がある。しかしこの時季の熊は
危険だ。だから賢い人はそんな冒険はしない。
遅くとも八月上旬に日程を組むよう心がけるのである。

縦走は雪渓の水場に立ち寄らなければならない。
しかしそこは熊の水場でもある。晩秋の色濃い
大雪山で、熊 と水場を共にするのだから、馬鹿で
なければそんな事はしない。良くも無事にたどり
着けたものだと今でも思う。 山葡萄、こくわ、
山リンゴ、鮭、彼らは何でも食う。食い物がなければ
ブドウの葉っぱでも食う。

余談だが、ブドウの蔓や茎は案外と旨いものである。
食料がなくて山で飢え死 にしたなどと言う話を聞くと、
私は「馬鹿みたい」と思う。山全体が食い物そのもの
だか らである。

しかし山にも豊凶がある。不作の時、熊は生命の危険
に脅かされる。かくして彼らは、 時に人里を襲う事に
なるのである。

 

その4に続く…

熊の話(2)

私は「山奥の中学校代用教員」として四年間、
熊の出没する地域に生活した。 秋の頃になる
と熊が里にも下りてくる。冬眠と言っても熊の
冬眠は、蛙や蛇の冬眠とは違う。彼らは、穴の
中でうつらうつらと時を過ごすのである。決して
眠り込んでいるわけではない。だから体温も
平常に近く維持されるし、寝ていてもエネルギー
は消耗する。雌熊の場合は、冬眠中に出産する
上、子熊達に母乳を与えなければならない。
だから、その苦労はひととおりのものではない
だろう。

秋口にかかると、熊は何でもかでもむさぼり食う。
体内に栄養を蓄えようとするのであ る。もし十分
に肥ることに成功しなければ、熊は冬眠中に死ん
でしまう。彼らは本能的に その事を知っているから、
秋口にかかるとえさを求めるのに必死である。

十分肥満するこ とができなかった熊は冬眠しない。
極寒の中、彼らは雪の山野を彷徨い、雪を掘り起こ
して、雪中に埋まっている笹などを食べるのである。
あるいは川の魚なども狙うのかも知れない。北海道
の寒さは尋常ではない。「穴なし熊」の冬が、どれほど
過酷なものかを熊は熟知している。それだけに彼らは、
肥え太る事に命を賭けるのである。

 

その3に続く…

熊の話(1)

狭山ヶ丘高等学校長 小川義男

北海道の知床では、人慣れした熊が
出没して人気を呼んでいる。私はこの
地域の奥地に ある「カムイワッカの滝」
を訪れたことがある。ここにも熊が出没
するそうである。

湯の 流れる滝をわらじ履きで登って
行った果てに、温泉でできた泉がある。
これが有名なカム イワッカの天然温泉
である。湯に入って良い気分になって
いるうちに、立て札に気がつい た。

熊が出没するから、夜は絶対にこの温泉
に近づかないようにと書かれてある。 人づて
に聞いた話だが、大胆な若者が、深夜この
温泉に入りに行った。世の中には、大胆な
人、無謀な人が割合多いものである。

彼は星空を仰ぎながら気持ちよくタオルを
使っ た。すると誰か入ってきたのか、後ろに
水音がする。「ほらほら、熊が出るなんてこけ
お どしだ。ほかにも入りに来る人が居るじゃ
ないか。」挨拶でもしようと彼が振り返ると、
湯の音を立てているのは人間ではなかった。

彼が熊と共にどのくら温泉を楽しんだのかは
聞き漏らしたが、幸い人慣れした熊だったの
であろう。 しかし熊は本来、簡単に人に慣れ
るような生き物ではない。本州に生息する月
の輪熊く らいなら、刃物さえ持っていれば
何とか退治することもできよう。だが羆(ひぐま)
となるとそうは行かない。アイヌ犬数匹を連れた
アイヌの猛者ならともかく、羆と戦って我々が
生き残る 道はない。

 

その2に続く…

 北国の山の果実(4)

 

果実の大きさは、直径三センチ弱であろうか。
この実は、冬になっても落ちるこ とがなく、
枝についたまま歳を越す。夜はかちかちに凍り、
日中は日差しを受けて 暖まる。凍るのと融けるの
を繰り返す中で、果実の中の水分が、果肉の組織
をぐず ぐずに打ち砕く。そのような繰り返しの中で、
果汁が発酵するらしいのである。

かじると、アルコール分を含んだ果汁が口一杯に
広がる。噛んだあと、カスは雪の上に吐き捨てるの
だが、それこそ「よだれの穴が痛くなるほど」うまい。

日中は スキーを履いて、この山林檎の木を訪れた。
風呂敷に包み、首に巻き付けて帰って くるのだが、
毎日その美味を楽しんだものである。

 

 

大学入試に失敗した私は、高校卒業と同時に、この
山奥の中学校の代用教員にな り、英語を教えていた。

当時は、高校卒業の学歴で、中学校の教員として
勤めるこ とが可能な時代だったのである。 その村も、
人口が十分の一以下に減少し、昔日の面影はない。
勤務していた中学校も、併置されていた小学校も廃校
になった。

以来五十年、あの山林檎の木は、訪う人もないまま、
今も山の南斜面に立ち続けているのであろうか。

(完)

北国の山の果実(3)

 

このほか私には、「山林檎」への特別な
思い出がある。 春先の北海道は固雪
になる。日中、雪の表面が融け、それが
夜間に凍って表面だけが固くなるので
ある。

早朝にその上を歩くと、ほんの数ミリほど
へこんで、カシャ、カシャと快い音を立てる。
自在に走り回ることもできるし、中には自転車
を飛 ばす剛の者もいる。

私が担任した、中学生のある男子生徒は、

三月や  固雪踏んで 卒業す

と詠んだ。

固雪の頃は、北国の子供が最も楽しみとする
季節だったのである。 高校を卒業して、山奥
の中学校代用教員になった私は、春になると、
毎朝固雪の山中を歩き回った。固雪も午前十時
を過ぎる頃になると、太陽に暖められて表面の
堅さを失う。固雪踏んで、自在に走り回るにしても、
遅くとも十時、できれば九時前には帰って
こなければならない。私は、朝の五時には家を
出て、山野を歩き回るのを、その季節の習慣と
していた。

その折りに、この山林檎を発見したのである。

(その4につづく)

北国の山の果実(2)

しかし、山の果実の王様は、何と言っても
「こくわ」であろう。大きさは、大人の親指
くらいであろうか。実は青くて固い。これを
米の中に埋めておくと、数日後には、ふに
ゃふにゃになる。それを食べるのである。

口に入れると、甘いとも、酸っぱいとも、
例えようのない味が広がる。木につい たまま
柔らかくなったものはさらにうまい。 面白いの
は、この「こくわ」が、キウイフルーツに酷似して
いることである。種の並び、表面の感じ、果肉
の質、どう考えても同一種だと思われる。

寒冷化が進むのにつれて、本来は熱帯植物
だったキウイが、環境に適応し、実も小さくなり、
表 面の毛も失われたものなのであろう。但し、
味はどういうものか「こくわ」の方が 断然うまい。

しかし「こくわ」は、山葡萄のように簡単には
手に入らない。山も可成り奥に入らなければ、
鈴なりの「こくわ」を獲得することはできない。
しかも困ったことに、 「こくわ」は、熊の好物
でもある。蔓によじ登って「こくわ」をもいで
いたら、熊公 が、「俺にも食わせろ」と、肩を
たたくかも知れないのである。
(その3につづく)

北国の山の果実(1)

校長 小川義男

雑事に忙殺され、ゆっくり桜を見る間もなく
今年の春も過ぎていこうとしている。 しかし
北海道の春はこれからである。この文章が
読者の皆様の手に届く頃が、桜の満開の
頃であろうか。遅く訪ねる北国の春である
が、今日は、北海道の山野に自生する
果実について触れてみたい。

北海道の山野には、沢山の果実が自生
している。 もっともポピュラーなのは山葡萄
である。巨峰のように改良し尽くしたうまさは
ないが、味が濃く、捨てがたい。 山葡萄は、
実がまばらについているものがうまい。

冬、スキーで滑ったりしてい て、ごく稀に、
落ちずに残っている房に出会うことがある。
雪中に味わう山葡萄の 味は格別である。

この山葡萄を樽などに詰め込んでおくと、
自然に葡萄液が溜まってくる。昔、白い瀬戸
でできた「焼酎甕(しょうちゅうがめ) 」があった。
下に焼酎を取り出すためのコックがついてい る。
この中に、詰まるだけ山葡萄を詰め込んでおいた
ところ、コックをひねると、 エキス分の濃い葡萄液が
流れ出してきた。多少アルコールも発生していたの
かも知れない。葡萄酒とは違った甘さと酸味とは、
他に類を見ぬ旨さであった。確か五月頃まで、
その味を楽しめたように思う。

(その2へ続く)

ペリカン君の想い出(4)最終回

私の脳裏には、即座に十二年前のモスクワでの
出来事が蘇った。ペリカンは単純に東京の警官
の数を尋ねたのではなかった。おそらく彼は、草
の根を這うようにし て国際活動家の間を探り歩き、
チェコ並びにソ連の圧政に苦しむ東ヨーロッパ全体
の自由化を模索していたのであろう。しかし、それが
あからさまになったときには、 生命の危険を伴う。
運転手が、実際には英語を話せる諜報機関員で
あることは彼も熟知していたろうから、私に対しても、
あのように「ユーモラスな」言葉で接近し たのである。
私の公式主義的発言は彼を痛く失望させ、田中と
ふたり顔を見合わせ て爆笑するに至ったのであろう。

 
彼の論文を読んだ後、電灯を消して布団に入った私は、
ペリカンを懐かしみなが ら、ふとこのことに気がついた。
そして、暗夜に顔の赤らむのを覚えたのである。今や
東ヨーロッパどころか、ロシアそのものさえ解放された。
レーニン存命中の中央委員すべてを殺害し、全国を
収容所列島と化したスターリンの圧制も今はない。彼に
殺された四千万の犠牲者たちへの記憶も忘れ去られ
つつある。政治活動に挺身し、三十過ぎまでは生きられ
まいと思っていた私も、思わぬ長生きをして老境を迎 えた。

ペリカンは、田中雄三は、今どうしているのであろうか。

(完)

 

ペリカン君の想い出(3)

 

千九百六十年代、チェコスロバキアはソ連の頸城(クビキ)を
脱しようと死に物狂いの抵抗を続けていた。いわゆる
「プラーハの春」である。

もともとチェコスロバキアは、我から進んで社会主義化した
国ではない。第二次世界大戦の混乱に紛れてソビエトロシア
に占領され、不本意ながら社会主義化を強行された国家
なのである。

戦前からその工業水準は相当のものであった。 スボボダ
大統領、ドプチェク共産党書記長の指導のもとに、自由を
求めてプラーハは燃えていた。その夢も実現されるかに
見えた千九百六十八年八月二十日、ソ連、 ブルガリア、
ハンガリー、東ドイツ、ポーランドの五カ国の軍隊は、突如
チェコス ロバキアに侵入したのである。

スボボダもドプチェクもモスクワに連行された。ドプチェクは
その後役職を剥奪され、森林監視員を命ぜられた。スボボダ
には、モス クワでエックス線をかけられたという噂もある。緩慢
に殺害する意図だったのかも知れない。 チェコへのワルシャワ
条約機構軍の進入は、全世界の憤激を生んだ。既に三十六歳
になった私も、ひそかに胸を痛めていたが、ある日「中央公論」
に目を通して驚 いた。その中に「プラーハの春」と題する
J・ペリカン名の論文を発見したからであ る。

ペリカンがチェコ議会の外交委員長になっていることは知って
いたが、ソ連の軍事弾圧の中で殺されたのではないかと憂慮
していた。彼は健在だったのである。 国際経験の豊かな彼は、
ワルシャワ機構軍侵入の直前、西ドイツに亡命し、そこから
チェコ自由化のための戦いを続行していたのである。

続きはその4へ

 

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