偉人の伝記に親しませよう(1)

校長 小川義男

「世の中に偉人などというものは存在しない。
それはすべて架空の話、国家権力に よって
作り上げられた美談に過ぎない」

このような考えが、戦後六十年間、日本を支配し
続けて来たのではないだろうか。小学校の道徳
などに登場する人物も、「向こう三 軒両隣にチラ
ホラする普通の人間」ばかりのように思われる。

だから子供たちは、並はずれて偉大な人物に
なろうなどとは考えず、こじんまりとまじめに生きれば
良いとするスケールに乏しい人間に育ってしまいがち
なのである。

しかし、世の中に偉人が存在しないのではない。
少し注意してみれば我が国の歴史は、常人の
予測を遙かに超 える偉大な人物に充ち満ちて
いるのである。

その2に続く…

廃墟の悲哀(4)

事実は冷厳であった。

特殊の原料炭を除き、我が国全域にわたって、
炭坑は ほぼ完全に閉山されてしまったからで
ある。

私はイデオロギーが、いかに無責任なもので
あるかを身体で味わった 「墨で書いた嘘は、
血で書いた真実を消すことはできない」とは
マルクスの言葉であるが、皮肉にも、その
マルキスト諸君が、いかに空疎なイデオロギー
をも てあそぶ存在であるかを、私は身を以て
実感せざるを得なかったのである。

農村人口、炭坑人口のほとんどが、必ずしも
生産的とは言えない都市に移動 してしまった。

都会の夜空は不夜城の感を呈しつつある。

その一方で、食料自給率四割に満たない
我が国の農地は荒廃しつつある。まさに政治の
無責任と言 うべきであろう。

政治家諸君の脳裏には、国家百年の計など、
全く存在してい ないのではないだろうか。

農村にも漁村にも炭坑にも廃墟が目につく。
炭坑では、既にその廃墟すら失われつつある。
炭都夕張の悲劇は、夕張市の歴代市長の
精神的荒廃を示すばか たんと りではなく
我が国政治そのものの荒廃をも象徴している
のではないだろうか 。

人々は「荒城の月」を愛唱する。

それは廃墟が人生の悲哀を象徴するもの
だからなのであろう。

私は旅するごとに廃墟をカメラに収めている。
廃墟は、人 生そのものの深さや悲哀を示す
ばかりではなく、我が国そのものの、あるいは
現代文明そのものの荒廃を示しているように
思われてならないのである。

<完>

廃墟の悲哀(3)

炭坑が次々につぶれ始めたのは、昭和35年頃からである。

その頃しきりに 「エネルギー革命」ということが叫ばれた。

つまり石炭よりは石油の方がコス トが安いから、エネルギー
は次第に石炭から石油に変わっていくというのであ る。

「左翼」は強くこれを否定した。 私は当時年も若く、赤平市立
赤間小学校教職員組合の分会長をしていた。い くつもの炭坑、
特に赤間炭坑の労働組合には しばしば激励の演説に出かけた。

その頃、炭労(日本炭坑労働組合)は、このエネルギー革命を
否定する立場を 取っていた。日本共産党・日本社会党(今の
社民党)の活動方針に追従する結果そうなったのであろう。

彼らの主張ははっきりしていた 「エネルギー革命」というのは、
アメリカに従属する日本独占資本のデマ宣伝である。彼らは、
アメリカ石油資本の利益に迎合するために 石炭を犠牲にして
石油を取り入れようとしているのである 。

アメリカの植民地政策さえはねとばすことができれば、炭坑
閉山などは行わずに済む。政府並びに独占資本は、むしろ
労働者の賃金を切り下げるために「エ ネルギー革命」を唱え
ているのであって、そのデマ宣伝さえ打ち破れば、炭坑閉山
など爆砕することができる。それが彼らの主張であった。

対米従属という主張は理解できないわけではなかったが、
私は「エネルギー革命」を否定する彼らの主張には根拠が
ないと考えた。液体で出てくる石油と、時には地下数千メー
トルから掘り出さねばならぬ石炭では、喧嘩になるわけが
ないからである。

 

その4に続く…

 

廃墟の悲哀(2)

炭坑ではズリ山が町の象徴である。地中から
掘り出した石炭には、いわゆる 「炭ガス」が混
じっている。そのカスと石炭とを選別しなくては
ならない。

カスを捨てた山がズリ山なのである。

30度の三角定規を伏せたような形の山である。
緩やかな方の斜面からトロ ッコが上っていき、
頂上付近から急斜面の側へ炭カスを落とす。

ズリ山全体が真っ黒だし、自然発火する箇所
も多く、あちこちから煙が上がっている。一目で
分かる炭坑町の象徴、それがズリ山の姿なので
あった。

しかし数十年を経て赤平市を訪れたが、幾つも
あったズリ山が一つもなくな っている。よくよく辺りを
見回してやっと分かった。

30年の間に、ズリ山は  大木に覆われてしまって
いたのである。山の形をよく見つめると、すっかり
緑に覆われてしまっているのだが、形がどうやら
「 30 度の三角定規」に似ている。それが大自然
の緑に包まれてしまったズリ山の姿なのであった。

あれほど沢山あった炭坑住宅、俗称炭住(たんじゅう)
も、その跡形さえ伺うことができない。

すっかり大森林と化してしまっている。

 

その3に続く…

 

廃墟の悲哀(1)

私は 歳の時に、熊が出るような田舎の中学校に就職した。
正式に言えば 18 助教諭、いわゆる代用教員である。

四年間勤め、その後大学に進学した。しか し、農村で
過ごした四年間が、人生でもっとも充実した期間だった
のではない かと思う。

その村も人口が十分の一以下に減少し、昔日の面影は
ない。勤務していた中学校も今はなく、併設されていた
小学校も廃校になった。今は校舎の土台すら 残ってお
らず、当時のグラウンドが、ただ広い空き地となって残っ
ている。

校庭一杯にさんざめいていた子供らの賑やかさも、それを
偲ぶよすがとてない。 このほかにも、私はいくつもの都市が
廃墟となっていく姿を見てきた

「故 。 郷の廃家」という歌を聴いて育ったせいか、私は廃墟
に特に強い関心を抱いている。 北海道の赤平市は、石炭
産業の城下町とも言うべき大都市であったが、炭坑が閉鎖
された後は、開発以前の大自然に立ち返ってしまった。
今は訪れる人も 少ない。

 

その2に続く…

体罰「絶対」禁止への疑問(5)

 

ともあれ、そのようにして、ぶっては駄目、
怒鳴っては駄目、立たせても駄目、睨んでも
駄目というような奇妙な風潮が我が国教育界に
猖獗(しょうけつ)を極めるに至ったのである。

叱ったり怒鳴ったり、時に軽くゲンコツを張ったり
することが時に必要である。特に小学校にその
傾向が強い。

しかるに「体罰絶対禁止」の原則が、あまりにも
杓子定規に要求されるので、教育現場には

「何もせんければいいんだろう。何もせんければ。」

と言った雰囲気が生まれてしまいがちなのである。

さてこの「体罰」は、我が国教育百年の流れの中で、
どのように位置づけられてきたものなのであろうか。

又、現在どのような問題を含んでいるのであろうか。
次回はこの点を詳しく論じてみたい。

(完)

10月28日、中学三年生は高尾山への軽登山に行きました。

京王線の高尾山口駅を出発して、ケーブルカーなども利用しながら、

山頂を目指しました。

途中の薬王院で休憩をとり、山頂にある高尾ビジターセンターでは、

四季折々の自然についてレクチャーを受けました。

あいにくの曇天でしたが、懸念されていた雨の影響もほとんどなく、

中学校生活で最後となる軽登山を楽しむことができました。

 

軽登山(3年生)

 

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体罰「絶対」禁止への疑問(4)

 

実は明治以来の我が国教育は、決してそのように
威圧的なものではなかった。

開戦の年に小学校三年に在籍し、敗戦当時中学一
年生だった私でさえ、教師に殴られたというようなこと
はほとんどない。

目撃するケ ースも極めて稀だったし、そのケースも、
むしろ私が教師の側に共感を 抱けるようなケース
ばかりであった。

しかしアメリカは、とにもかくにも日本の歴史、文化、
伝統、教育のすべてを否定する必要があったから、
それまで行われていた、比較的伸びやかな教育を
も否定し、その延長上に、体罰はいかなるものであ
っても断じて許さないという姿勢を貫いたのである。

文部省、大学教育学部の教授達、教育行政に携わる
人々、校長、指導 主事達のすべてが、「我遅れじ」と
ばかりこれに追随した。

彼らのほとんどは、常にアメリカの要求以上にアメリカ
的であろうと心がけたものである。 私の中学一年から
高校卒業までの六年間は、このように見苦しく身の
安全を図ろうとする教師達に囲まれて過ぎた。

許し難いと思うのは、彼 らが身の安全をはかるばかり
でなく、少しでも優位な、有利な地位を獲得しようと、

先を争ってアメリカの要求に忠実であろうとしたことで
あ る。まさにアメリカの要求以上にアメリカ的であろう
とする、これら醜い日本人、醜い教師達に、私がどれ
ほどの憎悪を抱いたか、今日、若い方々にはご理解
頂けないのではないだろうか。

 

その5につづく…..

 

体罰「絶対」禁止への疑問(3)

 

無人の空を行く感のあったアジア、アフリカの一角に、
白人の心胆を 寒からしめるほどの抵抗力を示す国家が
「出現した。言うまでもなく我 が日本である。しかし、
その外交政策の拙劣さ、軍事戦略の拙さもあって 、
我が国 は 1945 年 8 月 1 5 日 、この戦争に敗れた 。

勝利した白人列強 、 特にアメリカが、この「極東の
危険民族」を軍事的にだけでなく精神的にも武装
解除したいと考えたとしても無理はない。

かくしてアメリカは、 我が国の歴史、文化、伝統の
すべてを侮蔑し、傷つけ、辱めた。それを 端的に
示したものが 、当時の「 進駐軍 」司令官マ ッ カ
ーサー元 帥 の 、

「日本人は 1 2 歳」

という言葉である。建国日も浅いアメリカ人に「 1 2 歳 」
と言われては、ただただもう「恐れ入る」のほかはないが、
白人列強は、 それほどに日本人を恐れていたのである。

彼らは、「軍国主義的傾向」の名の下に、 5,211 名の
教師を公職から 追放した。さらに 1 1 万 5,778 名の
人々は、アメリカ軍の手になる「教職 員適格審査」を
受けることすら拒否し、教育界から去っていった。

そのようにして、学校のアメリカ化をはかる動きは
急ピッチに進められた。 その中で、これまでの
我が国の教育が、「教師による威圧、生徒の畏怖
の下に進められてきた」という虚構がでっちあげら
れたのである。

その4につづく…..

 

体罰「絶対」禁止への疑問(2)

 

None Directive Method (ノン デイレクティフ メソド )
という教育の一流派があった。直訳すれば「指導で
ない指導」と言うことになろう か。

青年教師時代の私は、「指導でない指導などは、所詮
指導たり得ないではないか」とせせら笑っていたが、
今もその思いは変わらない。

要するに指導することを恐れたのである。指導することに
伴う師弟間の緊張状態を恐れたのだ。理解し合い、納得
し合い、相手の了解を得た 上で人間的な成長を遂げ
させるという、本来不可能な極楽とんぼ的教育論は、
このようにして我が国に定着したのである。

実はこれには歴史的背景がある。第二次世界大戦が
始まった当時、世界のほとんどは欧米列強の植民地
であった。白人がアジア、アフリカに対して、どのような
専横、暴虐を働いたかは、白人文化全盛の今日、今
なお明確にされてはいない。 私はこれを、いずれ著書
にもしたいし、できれば「欧米列強植民地化の歴史
博物館」を世界各地に設立したいものだと願っている。

その残虐 非道は言語に絶するものであったらしい。

その3につづく…

 

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